2014年12月29日月曜日

この一年間ありがとうございました

今年も残すところ本当にあと少しとなりました。この一年間このブログを見て下さった方々、本当にありがとうございました。正直、思いつくまま何となく書いたため、なんともまとまりのないものとなってしまいましたが、今後もこんな感じで書いて行こうと思います。来年以降もよろしくお願い致します。
さて、常光寺ではただいま新年に皆様をお迎えするための準備をしております。大晦日から元旦にかけて天気のほうが崩れそうですが、当山では12月31日深夜から1月3日まで、初詣のご参詣をお待ちしております。

昨年までの墨絵は霊光殿前に展示してあります。の墨絵は当山入口に展示します。



大晦日の夜には竹灯籠によるライトアップを行う予定です。

また、先着300名様に来年の干支である未の根付をお配りします。そして温かい縁引きスープを用意して関係者一同お待ちしております。


2014年12月18日木曜日

掃除と仏教について②

少し間が空きましたが、前回の続きです。

【お掃除と仏教のお話し②】
昔々お釈迦様の弟子に、ある兄弟がいました。兄の摩訶槃特(まかはんどく)〈マハーパンタカ〉はお経の勉強もよくできましたが、弟の周利槃特(しゅりはんどく)〈チューダパンタカ〉は、物覚えが悪くて、朝聞いた事も夜になると忘れてしまう位の人でした。その上自分の名前も覚えられず、背中に自分の名前を書いてもらい、人に名前を聞かれると、自分の背中を見せて名前を教えるほどでした。ですから他の弟子達からいつも馬鹿にされていました。余談ですが、野菜の『茗荷(みょうが)』「名を荷(にな)う」と書きますが、この由来は自分の名前を覚えられずいつも背中に背負っていた周利槃特のお墓から生えてきたそうです。昔から『茗荷を食べると物忘れをしやすくなる』と言われているのも、この周利槃特の忘れっぽい性格からきていたのです。

彼はそういう自分が情けなくなって、お釈迦様の所へ行き「こんな愚かな私はもうお坊さんをやめたいのです」と相談しました。するとお釈迦様は「本当に愚かな人は自分が愚かである事を知らない人です。お前はちゃんと自分を知っている。だからお前は愚かではないよ。」と言って、彼に一本のホウキを持たせて「綺麗にしよう」という言葉だけ教えたのです。周利槃特はそれから何年も、その短い言葉だけを忘れそうになりながらも繰り返し言いながら掃除をし続けました。ある日、いつものように庭を掃いていると、お釈迦様が「ずいぶん綺麗になったね。だけどまだ一カ所だけ汚れている所があるよ」と声をかけたのです。

周利槃特は不思議に思い「どこが汚れているのですか」と尋ねましたが、お釈迦様は教えてくれません。「はて、どこだろうなあ?」と思いながら、それからもずっと「綺麗にしよう」と言いながら掃除を続け、結局何十年も経ったある日「そうか、汚れていたのは自分の心だったのか」と気付いたのです。その時、お釈迦様が彼の後ろに立っていて「やっと全部綺麗になって良かったね」と言いました。この時、周利槃特は皆に好かれる誰よりも心の優しい人になっており、阿羅漢(あらかん)という聖者の位に就きました。

皆さんも、その状況を想像してみて下さいね。最初は掃き方も下手で、わけも分からずに一生懸命掃いているのです。しかし、そのうちに掃除にも慣れてきて「あの隅っこが汚れているぞ」と気が付いたり、掃いてもしばらくするとまた汚れてくる事や、「綺麗に掃けたなあ」と思っても、光が差し込んでくると空気中にいっぱいのほこりが浮かんでいるのが見える。その中で「いくら掃いても綺麗にならないものだなあ・・。あっ!自分の心もそうじゃないのかなあ」と、気付いたのです。「お釈迦様はなぜ自分に掃けといったのか。それは結局『自分の心を掃け』ということだったのだなあ」と悟ったというわけなのです。


現代社会では『思いやり』という言葉が存在しますが、この『思いやり』の訓練を何日も、何年も、いや生涯続ける事が出来れば、周利槃特が阿羅漢になったように、誰でも人を引き付ける立派な人格を身につける事ができます。『成功に秘訣というものがあるとすれば、それは他人の立場を理解し、自分の立場と同時に他人の立場から物事を見る事の出来る能力である』自動車王ヘンリーフォードの言葉です。思いやりこそ、人生を成功に導く鍵なのですね。

思いやりに限らず、このお話は『一人一人がするべき事をひたすら一生懸命諦める事無く実行していけば、その結果は必ず素晴らしいものになるんだよ』というお釈迦様から私達へのメッセージなのではないかと思います。

2014年12月2日火曜日

掃除と仏教について①

今年も残すところあとわずかとなりました。みなさんのご家庭でも年末になると大掃除をする事と思いますが、今回は掃除と仏教について少し書いて行きたいと思います。

【掃除は修行】
昔から、日本仏教世界の日頃の修行として「一、作務(さむ) 二、勤行(ごんぎょう) 三、学問」といわれてきました。まず、1番が『作務』です。作務とは掃除や片づけ、庭の草取りや、昔ですと薪を割ったりお風呂を沸かしたり・・簡単にいうと、体を動かす作業の事です。その中でも作務の代表格は掃除です。皆さん『作務衣(さむえ)』という言葉の方が馴染みがあると思いますが、これは元々お坊さんがこのような作業を行う時の服装から来たものです。現在は一般の方々も着ていらっしゃったり、時には飲食店の制服にもなっていたりして、お寺以外でも目にする機会が増えましたね。
2番目の勤行とは、お経を読む事です。そして最後の学問はお経や仏教に関する知識のお勉強です。今の時代なら「一に勉強、二に勉強、掃除なんかしなくて勉強しなさい」と言われそうですが、お寺のお坊さんは掃除が1番です。仏教は人格を完成させる為の教えで、その手段としてお経を読んだり知識を得る事も勿論大切なのですが、「なんだそんな事」とおろそかにされがちな掃除などが、実は心を磨くのに大変重要な事なのだと教える為に作務はお坊さんの勤めの1番になっているのです。

【身の周りを磨くのは心を磨く?!】
仏教のお話ではありませんが、作務に繋がるお話です。
日本には昔から剣道・弓道・柔道・茶道・華道など○○道といわれる武術や稽古事がありますが、それらの稽古の前と後には必ず稽古場の掃除をします。例えば剣道にしてみれば剣の奥義を極める事は即ち、人間の奥義を極める事で、その為に道場の清掃は極めて大切な修行なのです。学校では毎日生徒が掃除をし、学期末には大掃除を行いますね。それはただ綺麗にする、というだけでなく『人の心を磨く』という重要な意味が込められているのです。

【お掃除と仏教のお話①】
インドやタイなどの仏教僧は掃除などの労働はしません。日本や中国の僧侶は作務といって労働をします。いつ頃からかどのように変わったのでしょうか。
それは中国の唐の時代、達磨大師(だるまたいし)から8代目の百丈懐海禅師(ひゃくじょうえかいぜんじ)からだといわれています。百丈禅師は西暦800年頃に百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)といわれる禅道場の修行の規則を作られた方です。現在でも、禅宗の修行道場の規則はこの清規の基づいています。
それまでの修行僧は労働には携わっていませんでしたが、百丈禅師は作務の中に宗教性を見出し、修行に作務を取り入れました。百丈禅師は95歳の天寿を全うされたという方で、高齢になってからも修行僧と一緒に作務に従事し、1日も怠る事がありませんでした。しかし弟子達は、老体の禅師が作務に励んでいる姿を見てその身を案じ、何度も作務を休むようお願いします。ところが禅師は聞き入れません。そこで弟子達は相談し、禅師専用の作務の道具を隠してしまいました。「道具がなければ禅師が作務を休まれるだろう」という弟子達の考えです。作務の合図の鳴らし物の音を聞き、出てきた禅師は、自分の道具がないので部屋に戻りました。それから以後、膳をすすめても決して箸を取りません。老体の禅師の身体を心配して道具を隠して休んでもらおうとしたのですが、かえって食事を摂らなくなってしまい、弟子達は困惑しました。
それが3日も続き、とうとう1人の弟子が「和尚は3日も食事を摂られませんが、なぜですか」と問いかけました。その時の禅師の答えが『一日不作一日不食〈いちじつなさざれば、いちじつくらわず〉』との一言。「私は今日1日何もしなかったのだから、今日は食べる事をやめにしよう」というのです。驚いた弟子達がすぐに道具を整えると、禅師は喜んで作務に出て、それ以後は平常のように食事も摂るようになったそうです。
この『一日不作一日不食』という言葉は『働かざる者食うべからず』とは違います。前者は『今日一日、私はこの食事が頂けるだけのつとめをして来ただろうか?』と自分で自分を反省し、律していくのに対し後者は、『お前は今日一日この食事を頂くだけのつとめをして来たのか?』と他人によって律せられる、という意味になります。自ら進んで食事を抜く断食と、他人から強制的に断食をさせられるのでは、同じように見える断食でも大変な違いがあります。
例えば、人が見ている前ではゴミはゴミ箱に捨てるけれど、見ていなければポイっとそこら辺に捨ててしまう・・。こんな身近な事も周りによって、ではなく自分自身の心がけが問われる事ですね。

次回もう少しこのテーマで書いて行こうと思います。

2014年11月23日日曜日

七五三について

少し遅れてしまいましたが今回は「七五三」について書いて行こうと思います。

七五三の由来
七五三とは、七・五・三歳の子供の成長を祝う行事です。十一月十五日、もしくはその周辺の日に行いますが、この由来は今から約400年前にさかのぼります。後の五代将軍となる徳川綱吉は虚弱体質でした。そこで、五歳のお祝い事である『袴着(はかまぎ)の儀』を慶安三年の十一月十五日に盛大に行ったのが始まりです。この日は特別な日でもありました。袴着の儀はその時、暦でいう『鬼宿日(きしゅくび)』に当たる日を選んで行われ、まさに十五日がその日でした。この鬼宿日は古法二十七宿と違い、当時取り入れられた中国式の二十八宿の中では、最も素晴らしい日と言われていました。
また旧暦の十一月はちょうど刈り入れも過ぎ、一段落する時期でもあり、霜月(しもつき)祭をする月です。霜月祭はその月の満月の日である十五日に氏神様へ収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、ご加護を祈ります。
十一月十五日というのは当時の暦法や、生活の目印として重要な月の満ち欠けを考えても行事には最適な日だったのですね。そして、明治改暦以降は新暦の十一月十五日に行われるようになりましたが、現在は日にこだわらず十一月中のいずれかの日で行われることが多くなりました。

なぜ祝うのは三・五・七歳?
これは日本が奇数を陽数、偶数を陰数といい、奇数を縁起の良い数と考える中国の影響を受けていた為です。元旦をはじめとする節句が奇数であるのはこの考え方からきています。
近代以前の日本は疫病や栄養失調による乳幼児死亡率が高く、七歳まではまだ人としての生命が定まらない「あの世とこの世との境に位置する存在」とされ、「いつでも神様の元へ帰りうる魂」と考えられていました。その為、一定の成長が確認できるまでは、人別帳(当時の戸籍簿)にも記載されず、七歳になって初めて人として迎え入れられました。男児が女児よりも早く祝うのは後継者としての意味合いもありますが、医療技術が発達するまでは女児よりも男児の方が生存率が低かった為です。
七五三には、それまで子供が無事に生きてこられたという感謝と、これからも幸せに、長生きが出来ますように・・と切に願う強い思いが込められているのですね。

儀式の方法

〈三歳(男女)=髪置(かみおき)・櫛置(くしおき)〉
昔は、幼児の髪の毛は男女の区別なく剃っているのが普通でした。これは頭髪から病気がくると考えられていた為です。そして三歳になって初めて髪を伸ばすようになります。これを祝ったのが髪置の儀式です。「子供が白髪頭になるまで長く生きられるように」という願いが込められ、糸で作った白髪のかつらや綿帽子をかぶらせる事もありました。

〈五歳(男)=袴着〉
初めて袴をつける儀式で、幼児が童子になる為の通過儀礼の一つとされており、元々は男女共に行っていましたが、後に男児のみの儀式のなっていきました。

〈七歳(女)=紐落(ひもおとし)・帯解(おびとき)〉
それまで着物を留めるのに使っていた紐を大人が使う帯に変える儀式です。この時に初めてお化粧をする事が多く、「大人の女性として認められるようになる」といった意味が込められています。

《千歳飴》
七五三に欠かせないのが千歳飴ですね。子供に千寿の願いを込めて、細く長くなっており(直径約十五ミリ以内、長さ一メートル以内)、縁起が良いとされる紅白色で着色されています。だから、飴を入れる袋も、鶴亀や松竹梅等の縁起が良い絵が描かれています。
千歳飴は江戸時代、浅草で飴を売っていた七兵衛という人が紅白の棒状の飴を「千年飴」「寿命糖」と名前を付けた長い袋に入れて売り歩いたのが始まりだとされています。

七五三は神社だけではない?!


七五三といえば、神社に行って参拝するのが一般的だと言われています。しかし今日ではお寺や教会で行う一風変わった七五三が人気を集めているようです。
特に日蓮宗では、「恐れ入谷の鬼子母神」で知られる、鬼子母神様を祀っている寺院が多く、この鬼子母神様というのは、法華経信者の守護神であると共に、子授かり・安産・子育ての慈愛の神様であり、子供の祈願に参詣される方が沢山いらっしゃいます。もちろん、この常光寺にも祀ってあります。
大切なお子様の成長の祝福と祈願を、鬼子母神様に参詣する事で、周りとは違うオリジナル七五三を楽しまれてはいかがでしょう。ちなみに、お寺で行う七五三は「お宮参り」ではなく「初参り」といいます。

2014年11月15日土曜日

日蓮聖人の生涯③

前回に続き日蓮聖人のお話しです。

【身延山での不思議なお話し①】
日蓮聖人の布教(宗教を弘める事)中に、山伏の善智法印(ぜんちほういん)が聖人に術くらべを申し入れました。法印は祈祷によって大石を地上3メートルの空中に浮かせました。しかし、聖人は全く動揺せず「その石をおろして下さい」と言いました。法印がいくら祈祷しても石をおろす事はできません。そこで聖人が「南無妙法蓮華経」を唱えるとスッーと大石は地面におりました。恐れをなした法印は、その場で日蓮の弟子になる事を誓いました。
内心、怒りの治まらない法印は後日、聖人に毒入りのぼた餅を差し上げました。勧められるがままに、聖人がぼた餅を食べようとしたその時、どこからともなく1匹の白い犬が現れました。聖人は「お前も食べたいであろう」と、ぼた餅を犬にあげたところ、一口食べた犬は血を吐き、たちまちに絶命してしまいました。この光景を目の当たりにした法印は観念し、心から詫び、弟子入りをお願いしました。聖人は日傳(にちでん)と名を付け、法印を弟子にしました。身代わりとなった犬は、身延山の麓に埋葬され、聖人は杖に使っていた銀杏の枝を墓標として逆さに立てて冥福を祈りました。ところが数年後、そこから芽が出て、枝が下を向く「逆さ銀杏」となり、現在では大木に成長し、天然記念物に指定されています。


【身延山での不思議なお話し②】
日蓮聖人が56歳の頃、見慣れない顔の美しい少女が度々お説法を聴きにきていました。ある日、お話しが終わると聖人は「もうよい。本当の姿を現しなさい。」と少女に言いました。少女は「すみませんが、一滴の水を頂けませんか。」といい、聖人は花瓶の水を振りかけました。すると、たちまちに少女は龍の姿となり「私はお釈迦様の使命を受け法華経守護の為に遣わされた七面天女(七面大明神)です。これから、七面山(ななめんざん)〈身延山の隣の山〉に住みお力になりましょう。」と言い残すと七面山の頂上に昇っていきました。
その後、法華経の守護神である七面大明神として現在も信仰されています。


さて、昨年当山で行いましたカウントダウンのバルーンリリース、好評につき今年も行います。先着100名様限定となっておりますので、お早目にご連絡下さい。ご予約された方は、当日(12/31)23:20までに当山までお越し下さい。受付にて、お願い事用紙・風船をお渡しします。お申込みは1回1000円(御祈願料含む)です。尚、雨天・荒天の場合は中止とさせていただきます。何卒ご了承ください。

TEL:(092)531-0618 FAX:(092)531-9084

お越し頂いた方には、縁引天玉(えんびきてんのう)様の縁結びにちなんだ縁引スープをご用意しております。ぜひ皆様お誘い合わせの上ご参加下さい。

2014年11月8日土曜日

日蓮聖人の生涯②

前回の続きです。

【度重なる法難(仏教に対する弾圧事件)と奇跡】

松葉ヶ谷の法難
立正安国論提出の一ヶ月後、幕府を後ろ盾とした他宗の僧・信徒が結託して草庵を襲撃します。それを日蓮聖人は、帝釈天の遣いの猿に助けられ難を逃れます。翌年の1261年に鎌倉に戻り、一層猛烈な布教活動を行いました。

伊豆への流罪
5月12日、幕府(執権北条長時・重時)や極楽寺の良寛等により、これという罪名もなく伊豆へ流罪となりました。島へ渡る間役人達の企みで、満潮になると沈む岩に降ろされてしまい、お題目を唱えながら九死に一生を得ている中、一隻の船に助けられ伊東へ無事に到着したのです。流罪中、長時は病に倒れ、重時が狂死した事もあり、伊東で法華経を広めた後に流罪を許され、帰郷しました。

小松ヶ原の法難
故郷安房の国に戻った日蓮聖人は亡くなったお母さんを生き返らせ、その後お母さんは4年間元気に過ごしました。
1264年11月11日信者である工藤吉隆の邸へ行く途中、千葉県の小松ヶ原で景信が数百人の兵を引き連れ襲撃してきました。この時迎えに来ていて、知らせを聞いて争いに飛び込んでいった吉隆は「自分の子供を弟子にしてほしい」との遺言を遺し討ち死にしました。激戦の末、(説では)鬼子母神(きしもじん・きしぼじん)の助けにより、難を逃れます。その後景信は狂死しました。

十一通御書
1268年1月18日鎌倉に蒙古(モンゴル)から使者が来ました。予言していた他国からの侵略が現実化したのです。10月11日、聖人は当時の幕府・仏教界の代表11人に警告状を送りました。内容は「外敵を退散さるには法華経を広く弘め、あらゆる宗教の代表者を一同に立ち合わせ宗教の正しい事・よこしまな事を明白にさせるべきです」というものでした。

竜の口の法難
1271年8月12日、頭血がのぼった良寛は幕府や他の宗教家達を引き込み、日蓮聖人は逮捕され、処刑にまで追い込まれました。竜の口処刑場で、まさに首を切られようと刀が振り上がったその時!突然ものすごい稲妻が襲ってきたのです。その光で辺り一面真昼のようになり、刀を振り上げた兵士は目がくらみ、周りの兵士達も恐れおののき、処刑は失敗に終わりました。

佐渡流罪
処刑に失敗した幕府は、今度は日蓮聖人を佐渡島へ流罪にしました。佐渡へ渡る最中、天候は大荒れで、船もろとも海に飲まれようかという時、聖人は竹竿を持ち、荒れ狂う波の上に『南無妙法蓮華経』という文字を刻みました。はっきりとその七文字は浮かび上がり、たちまち波は静まり一行は無事に佐渡へ着いたのでした。当初、島内の暮らしは衣食住全てにおいて、普通なら命をおとすようなすさまじいものでしたが、1272年4月7日幕府の命で他の場所に移され、手厚くいたわるよう通知されました。日蓮聖人がかねてから予言していた事に幕府が恐れをなした為です。こうして、島内でも法華経布教を完全なものとした後、1274年2月14日北条時宗によって無罪放免となり、約3年間の流罪生活を終えました。

次回は日蓮聖人の身延山での不思議なお話を紹介します。

2014年11月3日月曜日

日蓮聖人の生涯①

10月13日は日蓮聖人のご命日で、常光寺でも毎年11月3日にその法要を行っています。今回はその『日蓮聖人の生涯』について書いて行こうと思います。

【日蓮聖人の誕生】
昔々、安房の国(あわのくに:現在の千葉県)の漁村に貫名重忠(ぬきなしげただ)と梅菊(うめぎく)という仲のいい夫婦がいました。ある日梅菊は夢でお日様が自分のお腹の中に入ってくる夢を見ます。はっとして目が覚めた梅菊は、自分のお腹に子供が出来た事を悟ります。1222年2月16日、貫名家の庭に突然清らかな水が湧き出し、海には多くの鯛が現れ、夏に咲くはずの蓮の花が咲き乱れ、この時貫名家には元気な男の子が生まれました。この男の子は「善日麿(ぜんにちまろ)」と名付けられ、この善日麿こそが後の日蓮聖人です。
幼い頃より賢く、周りからも一目おかれていた善日麿は道善房(どうぜんぼう)という僧侶からの申し出を受け、1233年に薬王麿(やくおうまろ)と改名し、清澄寺(せいちょうじ)というお寺へ預けられます。1237年、16歳で「是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)」と改名し、「日本一の知恵を授かりたい!」という常日頃のお祈りの甲斐あってか、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)様〈無限の知恵や慈悲を持った菩薩様〉より「知恵の玉」を授かります。こうして翌年1238年の秋、蓮長は長い長い修行の旅に出るのです。


【立教開宗の時】
月日は流れ、蓮長はついに『法華経』という本当の教えを見つけました。1253年4月28日32歳の頃、虚空蔵菩薩様と道善房上人にお礼を言う為故郷へ帰った蓮長は清澄山朝日が森の頂上で海の向こうに昇るお日様に向かって『南無妙法蓮華経』と唱えました。これが私達もよく唱えているお題目の始まりです。この時自ら「日蓮」と改名し、「お日様の様に、分け隔てなく光を注ぎ、蓮の花のように濁った所にでも美しい華を咲かせる・・そんな素晴らしい教えを社会に弘めていこう」と決意を固め、さっそく人々へ初めてのお説教を行いました。
ところが、日蓮聖人のスタートは厳しいものでした。「法華経以外のお経を尊ぶから、様々な災難が起こる。法華経の信仰を打ち立ててこそ、人々は救われる。」と話した事で、それまで他宗の信仰者であった地頭東条景信(とうじょうかげのぶ)をはじめとした民衆の怒りを買いました。それでも日蓮聖人はこの反応を覚悟しており、その上でゆるぎない信念で唱え続けたため、遂に景信に清澄山から追放命令を下されます。そして、ご両親を初めての信者とし、次第に信者の数も増え、弟子も持ち、鎌倉へ出発しました。

【立正安国論の誕生】
この頃、各地で暴風雨・洪水・大地震・飢饉が多発し、鎌倉では火事が起こり、人々は怯えていました。鎌倉の松葉ヶ谷(まつばがやつ)に草庵(そうあん)〈小さな家〉を持ち、1258年2月、日蓮聖人は災害の原因を調べようと静岡県の実相寺(じっそうじ)に籠り、毎日毎日書物とのにらめっこが続きました。
ある日、『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』という論文にまとめ、1260年7月16日39歳の頃、時の実権者北条時頼(ときより)に提出します。『立正安国論』の内容は「このままいくと内乱や他国からの侵略が起こるでしょう。今こそ国・国民が心を一つにして正しい教えを見つけましょう。その正しい教えは〈法華経〉なのです。」というものでした。法華経信者でない時頼は怒り、この事はすぐに鎌倉中に知れ渡り民衆の怒りも爆発しました。

【身延山での生活~入滅】
4月8日、幕府は鎌倉に戻った日蓮聖人を呼び、蒙古襲来がいつになるのかを尋ねました。聖人は「今年中には来ます」との予言通り、10月に蒙古軍は攻めてきましたが、幕府は日蓮聖人の助言を無視し他宗の祈祷をさせるよう命じました。「三度諌めて聴かざれば、即ちこれを去る※」という中国の故事にならい、聖人は山梨県身延山(みのぶざん)へ入山しました。身延山でも様々な出来事がありましたが、一日も休むことなく布教と弟子の育成に情熱を注いでいき、1281年には草庵を改築し、久遠寺(くおんじ)と命名しました。これが現在の日蓮宗の総本山です。
1282年日蓮聖人は体を悪くし、療養と父母の墓参りの為に身延山に別れを告げました。途中信者である池上宗仲(いけがみむねなか)の邸に立ち寄りましたが、2.3日滞在した10月13日、ついに亡くなりました。この時、突然大地が揺れ、季節外れの桜が咲き乱れたといわれており、現在もこの桜は10月頃から花を咲かせます。これが由来で御会式には紙で作った花(桜)を飾るようになりました。
※「臣下が君主の過ちを三度諌めても聞き入れられない時はその位から去る」の意味~礼記より


次回は日蓮聖人の度重なる法難と奇跡について書いて行こうと思います。

2014年10月11日土曜日

3日間の度牒の旅

10月1日、千葉県にある清澄寺(せいちょうじ)に度牒の交付を受けに行ってまいりました。度牒とは出家得度の証明書の事です。清澄寺までは交通の便が不自由である為、前日入りする事になりました。この日は自坊で行事があったので、14時頃自坊を出て駅に着いたのは21時・・。駅は無人で、真っ暗だったので、どんな街なのかもよくわからず、ホテルに着きました。

翌日、少し時間があったので、鯛の浦遊覧船に乗って、その後日蓮聖人の御誕生の地である誕生寺へ参拝にいきました。遊覧船では雄大な海と特別天然記念物である鯛の浦の鯛が海面いっぱいに泳いでいる姿が見れて癒されました。誕生寺さんは今年日蓮聖人御降誕800年で、観光客の方も沢山いらしていました。外には日蓮聖人のお若い頃〈当時は善日麿(ぜんにちまろ)というお名前です〉の像が建っていて、祖師堂には、日蓮聖人の像が安置されているそうです。とても立派なお寺で、素晴らしいタイミングで来れたな・・と少し豊かな気持ちになれました。「これから度牒を受けますので宜しくお願いします。」と日蓮聖人のにご挨拶&参詣をしてきました。



度牒の交付を受けると、正式に出家したと認められます。簡単に言うと、私の場合はお坊さんの卵(小僧さん)になったという事です。日蓮宗の場合は先程も書いた千葉県清澄にある清澄寺というお寺で受けなければなりません。日蓮聖人もこの清澄寺で12歳で出家得度され、ここにお墓も祀られています。日蓮聖人の弟子となる私達も同じ場所で出家する・・という決まりなのです。

1日目は午後からお寺に入り、読経の試験や作法を受けます。これが夜まで行われ、翌日は早朝5時~、お題目を唱えながら境内(敷地内)の旭が森に登り、(晴れていれば)ご来光に向かってお経を唱えます。今回は少し曇ってはいましたが、若干ご来光を見る事が出来ました。とても感動的でした。日蓮聖人も32歳でこの旭が森に登られ、立教開宗の第一声(南無妙法蓮華経)を唱えられ、蓮長から日蓮という名前に改名されたそうです。その後、お堂にて度牒交付式が行われ、出家した度牒生一人一人に証書と袈裟が渡されます。ここで初めて袈裟をつける事が許されます。

清澄寺さんは想像以上に山奥にあり、車で駅から15分と言っても、なかなかの険しい山道でした。まだ道路や車のない時代、隣町の小湊からひたすら歩いてお寺に入られた上に、更に山頂にある旭が森に登られた日蓮聖人はさぞや気力・体力共にとてもお強い方なのだと本当に感銘しました。


あと九州から受けに来ていたのは、私以外に2名しかいらっしゃらなかったのですが、何と!お一人は私の親戚筋の方という事が発覚し、もうお一人は私が霊断でとてもお世話になっているお上人のお寺の方で、付添いにいらしたお上人と思わぬ再会をし、とても不思議なご縁を感じました。更にそのお二人とお部屋も同室だったので、お蔭で見知らぬ地での緊張もほぐれて有難い時間を過ごさせて頂きました!本当に感謝です。

解散して、その親戚筋の方と、付添いにいらしていたご主人でもあるお上人と予定より1本早い電車に乗れたのはよかったのですが、途中原因不明の停電の為、電車がストップしてしまい、約1時間半電車は動きませんでした。電車が止まっている間、そのお上人が飲み物を買ってきて下さったり、私の飛行機の時間を心配して下さったり・・とそのお気遣いの素晴らしさと穏やかさに感激してしまいました。トラブルの中にも、とても素敵なご夫婦との交流があったので、なかなかの良い思い出になりました。そして、空港の搭乗口に15分前に着いて(ギリギリですね・・)無事に帰路につく事が出来ました。

まだまだ度牒はお坊さんの第一歩なので、今後檀信徒さんはじめ、周りの皆さんに役立てるようなお寺の一員となれるように、厳しい勉強も乗り越えていこうと思います。


2014年10月1日水曜日

妙法蓮華経方便品第二について その②

舎利佛(しゃりほつ)如来(にょらい)(のう)種種分(しゅじゅふん)(べつ)巧説(ぎょうせっ)諸法(しょほう)
舎利(しゃり)(ほつ)如来(にょらい)()種種(しゅじゅ)分別(ぶんべつ)し、(たく)みに諸法(しょほう)()き、
舎利弗よ。仏は相手と場合に応じて、色々と説き方を変え、巧みに多くの教えを説き、

言辭(ごんじ)柔軟(じゅうなん)悦可(えつか)(しゅう)(しん)
言辞(ごんじ)柔軟(じゅうなん)にして、(しゅ)(こころ)悦可(えっか)せしむ。
しかも常に易しく、やさしい言葉で説き、人々の心に喜びを与えてきました。

舎利(しゃり)(ほつ)取要言之(しゅようごんし)無量無邊(むりょうむへん)未曾有法(みぞうほう)佛悉(ぶつしつ)成就(じょうじゅ)
舎利(しゃり)(ほつ)(よう)を取って(これ)()わば、無量(むりょう)無辺(むへん)未曾有(みぞう)(ほう)を、(ほとけ)(ことごと)成就(じょうじゅ)したまえり。
舎利弗よ。要するに、仏というのは、人間では想像もつかないほど、未だかつてない最高の教えを完全に成し遂げているのです。

()舎利佛(しゃりほつ)不須(ふしゅ)復説(ぶせつ)
()みなん、舎利(しゃり)(ほつ)()()くべからず。
もうやめましょう、舎利弗よ。これ以上この事を説いても仕方ありません。

所以者(しょいしゃ)()佛所(ぶっしょ)成就(じょうじゅ)第一(だいいち)希有(けう)難解之法(なんげしほう)
所以(ゆえ)(いか)ん、(ほとけ)成就(じょうじゅ)したまえる(ところ)は、第一(だいいち)希有(けう)難解(なんげ)(ほう)なり。
なぜなら、仏の成し遂げた悟りの世界は最もすぐれたもので、仏の境地に至らなければとてもじゃないけれど理解する事は出来ません。

唯佛與佛(ゆいぶつよぶつ)乃能究盡(ないのうくうじん)諸法(しょほう)實相(じっそう)
唯仏(ただほとけ)(ほとけ)(いま)()諸法(しょほう)実相(じっそう)究尽(くじん)したまえり。
ただ仏と仏が語り合う事によってのみ、その教えを極め尽くす事ができるのですが、それは存在するあらゆる物事[現象=諸法(しょほう)]を欲望のないありのままの姿[真実=実相(じっそう)]で見る事のできる者同士でなければならない、という事なのです。

所謂(しょい)諸法(しょほう)(にょ)是相(ぜそう)(にょ)()(しょう)如是體(にょぜたい)(にょ)是力(ぜりき)
所謂(しょい)諸法(しょほう)(にょ)是相(ぜそう)(にょ)()(しょう)(にょ)是体(ぜたい)(にょ)是力(ぜりき)
ありのままの姿とはどのようなものなのかといえば、それはあらゆる存在(現象)は持ち前の姿形(すがたかたち)〈相(そう)〉があり、性質〈性(しょう)〉があり、それらを具(そな)えている本体〈体(たい)〉があり、持っている力〈力(りき)〉があります。

(にょ)是作(ぜさ)(にょ)是因(ぜいん)(にょ)()(えん)如是果(にょぜか)(にょ)是報(ぜほう)
(にょ)是作(ぜさ)(にょ)是因(ぜいん)(にょ)()(えん)如是果(にょぜか)(にょ)是報(ぜほう)
 〈力〉があれば、それが働きかける作用〈作(さ)〉を起こします。その働きを起こすまでには必ず原因〈因(いん)〉と機会・条件〈縁(えん)〉が伴い、千差万別(せんさばんべつ)の結果〈果(か)〉と影響〈報(ほう)〉を生み出しているのです。

(にょ)是本末究竟(ぜほんまつくきょう)(とう)
(にょ)是本末究竟(ぜほんまつくきょう)(とう)なり。
全ての物事はこの初め〈本(ほん)〉の相から始まり〈末(まつ)〉の報までが互いに平等に関わり合って、展開していくのです。※2

※1→前回の欲令衆のお話で「この世の生きとし生ける全ての物事人は、全て仏になる事が出来る本性を具(そな)えているのですよ」とお釈迦様が何度もおっしゃっていたというお話をしたのを覚えていますか?実は方便品の重要ポイントはここにあります。
かつてお釈迦様は大きく分けて3つの教えを説かれていました。なぜかというと、元々お釈迦様には大勢のお弟子さんや信者さんがいらっしゃったのですが、それぞれが十人十色といわんばかりに、知識や経験、教養、地位などが異なっていたので、その結果約84,000という多種多様の経典が作られることになりました。これらの経典は決して一様ではありませんでしたが、全て衆生を導く為の方便として説かれたのです。それはどんなものだったかというと・・
①《声聞(しょうもん)》=声聞はお釈迦様の説法を直に聞いて修行するお弟子さんの事で、先程の舎利弗さんもこれにあたります。「仏様の教えを聞いて自分を救いなさい」という教えです。
②《縁覚(えんがく)》=縁覚は辟支仏(ひゃくしぶつ)ともいい、山に籠(こも)って集団生活をしない修行者のように、師匠の元におらず自分一人で悟りを開く人の事です。自分の体験により仏の道を開こうとする教えなのです。
このように分かれてはいましたが、教えを受ける方は、余りにも自分の悟りに固執(こしつ)してしまって、周りの幸せを考える余裕がなくなってしまっていました。でもこれは仏様の教えではなくなりますし、このような方々はこのままでは仏様にはなれません。家族の中で考えてみても、自分は悟った、宗教的に目覚めたといっても、同じ屋根の下で生活をしている家族が苦しんでいたり、悩んでいれば、それは自分の幸せにはなりませんね。そこで出てきた教えが、
③《菩薩(ぼさつ)》=自分だけでなく、人々を教化(きょうけ)して仏の道を導く人の事で、「自分だけ救われるのは本当に救われた事にはならないよ。他を救う行いが自分を救う事になるんだよ」という教えです。
ただ③の人々は①や②の人々を強く批判していました。ちなみに仏教の中でも現在、様々な宗派があるのはこういう教えにしても何が本当に正しいのかという考え方(お経)に相違があるからですね。例えば①や②の人々を批判し、「③の人達だけが仏になる事ができる」としている宗派も沢山あります。
しかし、私達の唱えている法華経の方便品に限っては少し違います。お釈迦様は「①の人も②の人も仏になる事ができるんだよ」とおっしゃっているのです。お釈迦様はあくまでそのTPOを考えての方便をもって教えられたのですから、①も②も批判しているわけではありません。この方便品に書かれている教えは、『この世の生きとし生ける全ての物事人は全て仏様になる事が出来る本性を具えているのですよ』という事を何度も伝えられています。それを証明したのがあの舎利弗さんです。舎利弗さんは①の代表格的な方です。でもお釈迦様の言葉を聞いて、自分の間違いに気付いたのです。そして考え方を改めた舎利弗さんはやがて、お釈迦様に華光如来(けこうにょらい)という仏としてのお名前を頂きます。こうした「③だけでなく①も②の人も仏になれますよ」という思想を二乗作仏(じじょうさぶつ)といい、法華経の中で重要な教えとなっています。

※2→所謂諸法(しょいしょほう) 如是相(にょぜそう)・・から始まって本末究竟等(ほんまつくきょうとう)までを十如是(じゅうにょぜ)といいます。この「如是」とは必ず具わっているという意味です。お釈迦様は「物事をありのままの姿で見る事が仏になる必須条件ですよ。」と大変重要視されている事から、強調の意味を込めて、この部分は必ず3回繰り返し読む事になっています。


今年大ヒットした映画の主題歌で「ありのままの~♪」という歌がありますね。この歌は自分のありのままの姿を素直な気持ちで見せる事が、本当の自分の幸せになる・・という歌です。今回のお話に関しても、お釈迦様は物事をありのままの姿で見る事・感じる事が大切なのだとおっしゃっていますが、私達はいつでも物事を欲望という色眼鏡で見てしまい、自分の存在さえも偽ってしまいがちです。「もっと素直な気持ちで、自分を含めて見つめていく事が自分だけでなく周りの幸せにもつながるんだよ」と切に伝えていらっしゃるのでしょうね。

ずいぶん長くなってしまいましたが、ご拝読ありがとうございました。
 




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