2014年10月11日土曜日

3日間の度牒の旅

10月1日、千葉県にある清澄寺(せいちょうじ)に度牒の交付を受けに行ってまいりました。度牒とは出家得度の証明書の事です。清澄寺までは交通の便が不自由である為、前日入りする事になりました。この日は自坊で行事があったので、14時頃自坊を出て駅に着いたのは21時・・。駅は無人で、真っ暗だったので、どんな街なのかもよくわからず、ホテルに着きました。

翌日、少し時間があったので、鯛の浦遊覧船に乗って、その後日蓮聖人の御誕生の地である誕生寺へ参拝にいきました。遊覧船では雄大な海と特別天然記念物である鯛の浦の鯛が海面いっぱいに泳いでいる姿が見れて癒されました。誕生寺さんは今年日蓮聖人御降誕800年で、観光客の方も沢山いらしていました。外には日蓮聖人のお若い頃〈当時は善日麿(ぜんにちまろ)というお名前です〉の像が建っていて、祖師堂には、日蓮聖人の像が安置されているそうです。とても立派なお寺で、素晴らしいタイミングで来れたな・・と少し豊かな気持ちになれました。「これから度牒を受けますので宜しくお願いします。」と日蓮聖人のにご挨拶&参詣をしてきました。



度牒の交付を受けると、正式に出家したと認められます。簡単に言うと、私の場合はお坊さんの卵(小僧さん)になったという事です。日蓮宗の場合は先程も書いた千葉県清澄にある清澄寺というお寺で受けなければなりません。日蓮聖人もこの清澄寺で12歳で出家得度され、ここにお墓も祀られています。日蓮聖人の弟子となる私達も同じ場所で出家する・・という決まりなのです。

1日目は午後からお寺に入り、読経の試験や作法を受けます。これが夜まで行われ、翌日は早朝5時~、お題目を唱えながら境内(敷地内)の旭が森に登り、(晴れていれば)ご来光に向かってお経を唱えます。今回は少し曇ってはいましたが、若干ご来光を見る事が出来ました。とても感動的でした。日蓮聖人も32歳でこの旭が森に登られ、立教開宗の第一声(南無妙法蓮華経)を唱えられ、蓮長から日蓮という名前に改名されたそうです。その後、お堂にて度牒交付式が行われ、出家した度牒生一人一人に証書と袈裟が渡されます。ここで初めて袈裟をつける事が許されます。

清澄寺さんは想像以上に山奥にあり、車で駅から15分と言っても、なかなかの険しい山道でした。まだ道路や車のない時代、隣町の小湊からひたすら歩いてお寺に入られた上に、更に山頂にある旭が森に登られた日蓮聖人はさぞや気力・体力共にとてもお強い方なのだと本当に感銘しました。


あと九州から受けに来ていたのは、私以外に2名しかいらっしゃらなかったのですが、何と!お一人は私の親戚筋の方という事が発覚し、もうお一人は私が霊断でとてもお世話になっているお上人のお寺の方で、付添いにいらしたお上人と思わぬ再会をし、とても不思議なご縁を感じました。更にそのお二人とお部屋も同室だったので、お蔭で見知らぬ地での緊張もほぐれて有難い時間を過ごさせて頂きました!本当に感謝です。

解散して、その親戚筋の方と、付添いにいらしていたご主人でもあるお上人と予定より1本早い電車に乗れたのはよかったのですが、途中原因不明の停電の為、電車がストップしてしまい、約1時間半電車は動きませんでした。電車が止まっている間、そのお上人が飲み物を買ってきて下さったり、私の飛行機の時間を心配して下さったり・・とそのお気遣いの素晴らしさと穏やかさに感激してしまいました。トラブルの中にも、とても素敵なご夫婦との交流があったので、なかなかの良い思い出になりました。そして、空港の搭乗口に15分前に着いて(ギリギリですね・・)無事に帰路につく事が出来ました。

まだまだ度牒はお坊さんの第一歩なので、今後檀信徒さんはじめ、周りの皆さんに役立てるようなお寺の一員となれるように、厳しい勉強も乗り越えていこうと思います。


2014年10月1日水曜日

妙法蓮華経方便品第二について その②

舎利佛(しゃりほつ)如来(にょらい)(のう)種種分(しゅじゅふん)(べつ)巧説(ぎょうせっ)諸法(しょほう)
舎利(しゃり)(ほつ)如来(にょらい)()種種(しゅじゅ)分別(ぶんべつ)し、(たく)みに諸法(しょほう)()き、
舎利弗よ。仏は相手と場合に応じて、色々と説き方を変え、巧みに多くの教えを説き、

言辭(ごんじ)柔軟(じゅうなん)悦可(えつか)(しゅう)(しん)
言辞(ごんじ)柔軟(じゅうなん)にして、(しゅ)(こころ)悦可(えっか)せしむ。
しかも常に易しく、やさしい言葉で説き、人々の心に喜びを与えてきました。

舎利(しゃり)(ほつ)取要言之(しゅようごんし)無量無邊(むりょうむへん)未曾有法(みぞうほう)佛悉(ぶつしつ)成就(じょうじゅ)
舎利(しゃり)(ほつ)(よう)を取って(これ)()わば、無量(むりょう)無辺(むへん)未曾有(みぞう)(ほう)を、(ほとけ)(ことごと)成就(じょうじゅ)したまえり。
舎利弗よ。要するに、仏というのは、人間では想像もつかないほど、未だかつてない最高の教えを完全に成し遂げているのです。

()舎利佛(しゃりほつ)不須(ふしゅ)復説(ぶせつ)
()みなん、舎利(しゃり)(ほつ)()()くべからず。
もうやめましょう、舎利弗よ。これ以上この事を説いても仕方ありません。

所以者(しょいしゃ)()佛所(ぶっしょ)成就(じょうじゅ)第一(だいいち)希有(けう)難解之法(なんげしほう)
所以(ゆえ)(いか)ん、(ほとけ)成就(じょうじゅ)したまえる(ところ)は、第一(だいいち)希有(けう)難解(なんげ)(ほう)なり。
なぜなら、仏の成し遂げた悟りの世界は最もすぐれたもので、仏の境地に至らなければとてもじゃないけれど理解する事は出来ません。

唯佛與佛(ゆいぶつよぶつ)乃能究盡(ないのうくうじん)諸法(しょほう)實相(じっそう)
唯仏(ただほとけ)(ほとけ)(いま)()諸法(しょほう)実相(じっそう)究尽(くじん)したまえり。
ただ仏と仏が語り合う事によってのみ、その教えを極め尽くす事ができるのですが、それは存在するあらゆる物事[現象=諸法(しょほう)]を欲望のないありのままの姿[真実=実相(じっそう)]で見る事のできる者同士でなければならない、という事なのです。

所謂(しょい)諸法(しょほう)(にょ)是相(ぜそう)(にょ)()(しょう)如是體(にょぜたい)(にょ)是力(ぜりき)
所謂(しょい)諸法(しょほう)(にょ)是相(ぜそう)(にょ)()(しょう)(にょ)是体(ぜたい)(にょ)是力(ぜりき)
ありのままの姿とはどのようなものなのかといえば、それはあらゆる存在(現象)は持ち前の姿形(すがたかたち)〈相(そう)〉があり、性質〈性(しょう)〉があり、それらを具(そな)えている本体〈体(たい)〉があり、持っている力〈力(りき)〉があります。

(にょ)是作(ぜさ)(にょ)是因(ぜいん)(にょ)()(えん)如是果(にょぜか)(にょ)是報(ぜほう)
(にょ)是作(ぜさ)(にょ)是因(ぜいん)(にょ)()(えん)如是果(にょぜか)(にょ)是報(ぜほう)
 〈力〉があれば、それが働きかける作用〈作(さ)〉を起こします。その働きを起こすまでには必ず原因〈因(いん)〉と機会・条件〈縁(えん)〉が伴い、千差万別(せんさばんべつ)の結果〈果(か)〉と影響〈報(ほう)〉を生み出しているのです。

(にょ)是本末究竟(ぜほんまつくきょう)(とう)
(にょ)是本末究竟(ぜほんまつくきょう)(とう)なり。
全ての物事はこの初め〈本(ほん)〉の相から始まり〈末(まつ)〉の報までが互いに平等に関わり合って、展開していくのです。※2

※1→前回の欲令衆のお話で「この世の生きとし生ける全ての物事人は、全て仏になる事が出来る本性を具(そな)えているのですよ」とお釈迦様が何度もおっしゃっていたというお話をしたのを覚えていますか?実は方便品の重要ポイントはここにあります。
かつてお釈迦様は大きく分けて3つの教えを説かれていました。なぜかというと、元々お釈迦様には大勢のお弟子さんや信者さんがいらっしゃったのですが、それぞれが十人十色といわんばかりに、知識や経験、教養、地位などが異なっていたので、その結果約84,000という多種多様の経典が作られることになりました。これらの経典は決して一様ではありませんでしたが、全て衆生を導く為の方便として説かれたのです。それはどんなものだったかというと・・
①《声聞(しょうもん)》=声聞はお釈迦様の説法を直に聞いて修行するお弟子さんの事で、先程の舎利弗さんもこれにあたります。「仏様の教えを聞いて自分を救いなさい」という教えです。
②《縁覚(えんがく)》=縁覚は辟支仏(ひゃくしぶつ)ともいい、山に籠(こも)って集団生活をしない修行者のように、師匠の元におらず自分一人で悟りを開く人の事です。自分の体験により仏の道を開こうとする教えなのです。
このように分かれてはいましたが、教えを受ける方は、余りにも自分の悟りに固執(こしつ)してしまって、周りの幸せを考える余裕がなくなってしまっていました。でもこれは仏様の教えではなくなりますし、このような方々はこのままでは仏様にはなれません。家族の中で考えてみても、自分は悟った、宗教的に目覚めたといっても、同じ屋根の下で生活をしている家族が苦しんでいたり、悩んでいれば、それは自分の幸せにはなりませんね。そこで出てきた教えが、
③《菩薩(ぼさつ)》=自分だけでなく、人々を教化(きょうけ)して仏の道を導く人の事で、「自分だけ救われるのは本当に救われた事にはならないよ。他を救う行いが自分を救う事になるんだよ」という教えです。
ただ③の人々は①や②の人々を強く批判していました。ちなみに仏教の中でも現在、様々な宗派があるのはこういう教えにしても何が本当に正しいのかという考え方(お経)に相違があるからですね。例えば①や②の人々を批判し、「③の人達だけが仏になる事ができる」としている宗派も沢山あります。
しかし、私達の唱えている法華経の方便品に限っては少し違います。お釈迦様は「①の人も②の人も仏になる事ができるんだよ」とおっしゃっているのです。お釈迦様はあくまでそのTPOを考えての方便をもって教えられたのですから、①も②も批判しているわけではありません。この方便品に書かれている教えは、『この世の生きとし生ける全ての物事人は全て仏様になる事が出来る本性を具えているのですよ』という事を何度も伝えられています。それを証明したのがあの舎利弗さんです。舎利弗さんは①の代表格的な方です。でもお釈迦様の言葉を聞いて、自分の間違いに気付いたのです。そして考え方を改めた舎利弗さんはやがて、お釈迦様に華光如来(けこうにょらい)という仏としてのお名前を頂きます。こうした「③だけでなく①も②の人も仏になれますよ」という思想を二乗作仏(じじょうさぶつ)といい、法華経の中で重要な教えとなっています。

※2→所謂諸法(しょいしょほう) 如是相(にょぜそう)・・から始まって本末究竟等(ほんまつくきょうとう)までを十如是(じゅうにょぜ)といいます。この「如是」とは必ず具わっているという意味です。お釈迦様は「物事をありのままの姿で見る事が仏になる必須条件ですよ。」と大変重要視されている事から、強調の意味を込めて、この部分は必ず3回繰り返し読む事になっています。


今年大ヒットした映画の主題歌で「ありのままの~♪」という歌がありますね。この歌は自分のありのままの姿を素直な気持ちで見せる事が、本当の自分の幸せになる・・という歌です。今回のお話に関しても、お釈迦様は物事をありのままの姿で見る事・感じる事が大切なのだとおっしゃっていますが、私達はいつでも物事を欲望という色眼鏡で見てしまい、自分の存在さえも偽ってしまいがちです。「もっと素直な気持ちで、自分を含めて見つめていく事が自分だけでなく周りの幸せにもつながるんだよ」と切に伝えていらっしゃるのでしょうね。

ずいぶん長くなってしまいましたが、ご拝読ありがとうございました。
 




()()()()()()()()()()()()