2014年11月23日日曜日

七五三について

少し遅れてしまいましたが今回は「七五三」について書いて行こうと思います。

七五三の由来
七五三とは、七・五・三歳の子供の成長を祝う行事です。十一月十五日、もしくはその周辺の日に行いますが、この由来は今から約400年前にさかのぼります。後の五代将軍となる徳川綱吉は虚弱体質でした。そこで、五歳のお祝い事である『袴着(はかまぎ)の儀』を慶安三年の十一月十五日に盛大に行ったのが始まりです。この日は特別な日でもありました。袴着の儀はその時、暦でいう『鬼宿日(きしゅくび)』に当たる日を選んで行われ、まさに十五日がその日でした。この鬼宿日は古法二十七宿と違い、当時取り入れられた中国式の二十八宿の中では、最も素晴らしい日と言われていました。
また旧暦の十一月はちょうど刈り入れも過ぎ、一段落する時期でもあり、霜月(しもつき)祭をする月です。霜月祭はその月の満月の日である十五日に氏神様へ収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、ご加護を祈ります。
十一月十五日というのは当時の暦法や、生活の目印として重要な月の満ち欠けを考えても行事には最適な日だったのですね。そして、明治改暦以降は新暦の十一月十五日に行われるようになりましたが、現在は日にこだわらず十一月中のいずれかの日で行われることが多くなりました。

なぜ祝うのは三・五・七歳?
これは日本が奇数を陽数、偶数を陰数といい、奇数を縁起の良い数と考える中国の影響を受けていた為です。元旦をはじめとする節句が奇数であるのはこの考え方からきています。
近代以前の日本は疫病や栄養失調による乳幼児死亡率が高く、七歳まではまだ人としての生命が定まらない「あの世とこの世との境に位置する存在」とされ、「いつでも神様の元へ帰りうる魂」と考えられていました。その為、一定の成長が確認できるまでは、人別帳(当時の戸籍簿)にも記載されず、七歳になって初めて人として迎え入れられました。男児が女児よりも早く祝うのは後継者としての意味合いもありますが、医療技術が発達するまでは女児よりも男児の方が生存率が低かった為です。
七五三には、それまで子供が無事に生きてこられたという感謝と、これからも幸せに、長生きが出来ますように・・と切に願う強い思いが込められているのですね。

儀式の方法

〈三歳(男女)=髪置(かみおき)・櫛置(くしおき)〉
昔は、幼児の髪の毛は男女の区別なく剃っているのが普通でした。これは頭髪から病気がくると考えられていた為です。そして三歳になって初めて髪を伸ばすようになります。これを祝ったのが髪置の儀式です。「子供が白髪頭になるまで長く生きられるように」という願いが込められ、糸で作った白髪のかつらや綿帽子をかぶらせる事もありました。

〈五歳(男)=袴着〉
初めて袴をつける儀式で、幼児が童子になる為の通過儀礼の一つとされており、元々は男女共に行っていましたが、後に男児のみの儀式のなっていきました。

〈七歳(女)=紐落(ひもおとし)・帯解(おびとき)〉
それまで着物を留めるのに使っていた紐を大人が使う帯に変える儀式です。この時に初めてお化粧をする事が多く、「大人の女性として認められるようになる」といった意味が込められています。

《千歳飴》
七五三に欠かせないのが千歳飴ですね。子供に千寿の願いを込めて、細く長くなっており(直径約十五ミリ以内、長さ一メートル以内)、縁起が良いとされる紅白色で着色されています。だから、飴を入れる袋も、鶴亀や松竹梅等の縁起が良い絵が描かれています。
千歳飴は江戸時代、浅草で飴を売っていた七兵衛という人が紅白の棒状の飴を「千年飴」「寿命糖」と名前を付けた長い袋に入れて売り歩いたのが始まりだとされています。

七五三は神社だけではない?!


七五三といえば、神社に行って参拝するのが一般的だと言われています。しかし今日ではお寺や教会で行う一風変わった七五三が人気を集めているようです。
特に日蓮宗では、「恐れ入谷の鬼子母神」で知られる、鬼子母神様を祀っている寺院が多く、この鬼子母神様というのは、法華経信者の守護神であると共に、子授かり・安産・子育ての慈愛の神様であり、子供の祈願に参詣される方が沢山いらっしゃいます。もちろん、この常光寺にも祀ってあります。
大切なお子様の成長の祝福と祈願を、鬼子母神様に参詣する事で、周りとは違うオリジナル七五三を楽しまれてはいかがでしょう。ちなみに、お寺で行う七五三は「お宮参り」ではなく「初参り」といいます。

2014年11月15日土曜日

日蓮聖人の生涯③

前回に続き日蓮聖人のお話しです。

【身延山での不思議なお話し①】
日蓮聖人の布教(宗教を弘める事)中に、山伏の善智法印(ぜんちほういん)が聖人に術くらべを申し入れました。法印は祈祷によって大石を地上3メートルの空中に浮かせました。しかし、聖人は全く動揺せず「その石をおろして下さい」と言いました。法印がいくら祈祷しても石をおろす事はできません。そこで聖人が「南無妙法蓮華経」を唱えるとスッーと大石は地面におりました。恐れをなした法印は、その場で日蓮の弟子になる事を誓いました。
内心、怒りの治まらない法印は後日、聖人に毒入りのぼた餅を差し上げました。勧められるがままに、聖人がぼた餅を食べようとしたその時、どこからともなく1匹の白い犬が現れました。聖人は「お前も食べたいであろう」と、ぼた餅を犬にあげたところ、一口食べた犬は血を吐き、たちまちに絶命してしまいました。この光景を目の当たりにした法印は観念し、心から詫び、弟子入りをお願いしました。聖人は日傳(にちでん)と名を付け、法印を弟子にしました。身代わりとなった犬は、身延山の麓に埋葬され、聖人は杖に使っていた銀杏の枝を墓標として逆さに立てて冥福を祈りました。ところが数年後、そこから芽が出て、枝が下を向く「逆さ銀杏」となり、現在では大木に成長し、天然記念物に指定されています。


【身延山での不思議なお話し②】
日蓮聖人が56歳の頃、見慣れない顔の美しい少女が度々お説法を聴きにきていました。ある日、お話しが終わると聖人は「もうよい。本当の姿を現しなさい。」と少女に言いました。少女は「すみませんが、一滴の水を頂けませんか。」といい、聖人は花瓶の水を振りかけました。すると、たちまちに少女は龍の姿となり「私はお釈迦様の使命を受け法華経守護の為に遣わされた七面天女(七面大明神)です。これから、七面山(ななめんざん)〈身延山の隣の山〉に住みお力になりましょう。」と言い残すと七面山の頂上に昇っていきました。
その後、法華経の守護神である七面大明神として現在も信仰されています。


さて、昨年当山で行いましたカウントダウンのバルーンリリース、好評につき今年も行います。先着100名様限定となっておりますので、お早目にご連絡下さい。ご予約された方は、当日(12/31)23:20までに当山までお越し下さい。受付にて、お願い事用紙・風船をお渡しします。お申込みは1回1000円(御祈願料含む)です。尚、雨天・荒天の場合は中止とさせていただきます。何卒ご了承ください。

TEL:(092)531-0618 FAX:(092)531-9084

お越し頂いた方には、縁引天玉(えんびきてんのう)様の縁結びにちなんだ縁引スープをご用意しております。ぜひ皆様お誘い合わせの上ご参加下さい。

2014年11月8日土曜日

日蓮聖人の生涯②

前回の続きです。

【度重なる法難(仏教に対する弾圧事件)と奇跡】

松葉ヶ谷の法難
立正安国論提出の一ヶ月後、幕府を後ろ盾とした他宗の僧・信徒が結託して草庵を襲撃します。それを日蓮聖人は、帝釈天の遣いの猿に助けられ難を逃れます。翌年の1261年に鎌倉に戻り、一層猛烈な布教活動を行いました。

伊豆への流罪
5月12日、幕府(執権北条長時・重時)や極楽寺の良寛等により、これという罪名もなく伊豆へ流罪となりました。島へ渡る間役人達の企みで、満潮になると沈む岩に降ろされてしまい、お題目を唱えながら九死に一生を得ている中、一隻の船に助けられ伊東へ無事に到着したのです。流罪中、長時は病に倒れ、重時が狂死した事もあり、伊東で法華経を広めた後に流罪を許され、帰郷しました。

小松ヶ原の法難
故郷安房の国に戻った日蓮聖人は亡くなったお母さんを生き返らせ、その後お母さんは4年間元気に過ごしました。
1264年11月11日信者である工藤吉隆の邸へ行く途中、千葉県の小松ヶ原で景信が数百人の兵を引き連れ襲撃してきました。この時迎えに来ていて、知らせを聞いて争いに飛び込んでいった吉隆は「自分の子供を弟子にしてほしい」との遺言を遺し討ち死にしました。激戦の末、(説では)鬼子母神(きしもじん・きしぼじん)の助けにより、難を逃れます。その後景信は狂死しました。

十一通御書
1268年1月18日鎌倉に蒙古(モンゴル)から使者が来ました。予言していた他国からの侵略が現実化したのです。10月11日、聖人は当時の幕府・仏教界の代表11人に警告状を送りました。内容は「外敵を退散さるには法華経を広く弘め、あらゆる宗教の代表者を一同に立ち合わせ宗教の正しい事・よこしまな事を明白にさせるべきです」というものでした。

竜の口の法難
1271年8月12日、頭血がのぼった良寛は幕府や他の宗教家達を引き込み、日蓮聖人は逮捕され、処刑にまで追い込まれました。竜の口処刑場で、まさに首を切られようと刀が振り上がったその時!突然ものすごい稲妻が襲ってきたのです。その光で辺り一面真昼のようになり、刀を振り上げた兵士は目がくらみ、周りの兵士達も恐れおののき、処刑は失敗に終わりました。

佐渡流罪
処刑に失敗した幕府は、今度は日蓮聖人を佐渡島へ流罪にしました。佐渡へ渡る最中、天候は大荒れで、船もろとも海に飲まれようかという時、聖人は竹竿を持ち、荒れ狂う波の上に『南無妙法蓮華経』という文字を刻みました。はっきりとその七文字は浮かび上がり、たちまち波は静まり一行は無事に佐渡へ着いたのでした。当初、島内の暮らしは衣食住全てにおいて、普通なら命をおとすようなすさまじいものでしたが、1272年4月7日幕府の命で他の場所に移され、手厚くいたわるよう通知されました。日蓮聖人がかねてから予言していた事に幕府が恐れをなした為です。こうして、島内でも法華経布教を完全なものとした後、1274年2月14日北条時宗によって無罪放免となり、約3年間の流罪生活を終えました。

次回は日蓮聖人の身延山での不思議なお話を紹介します。

2014年11月3日月曜日

日蓮聖人の生涯①

10月13日は日蓮聖人のご命日で、常光寺でも毎年11月3日にその法要を行っています。今回はその『日蓮聖人の生涯』について書いて行こうと思います。

【日蓮聖人の誕生】
昔々、安房の国(あわのくに:現在の千葉県)の漁村に貫名重忠(ぬきなしげただ)と梅菊(うめぎく)という仲のいい夫婦がいました。ある日梅菊は夢でお日様が自分のお腹の中に入ってくる夢を見ます。はっとして目が覚めた梅菊は、自分のお腹に子供が出来た事を悟ります。1222年2月16日、貫名家の庭に突然清らかな水が湧き出し、海には多くの鯛が現れ、夏に咲くはずの蓮の花が咲き乱れ、この時貫名家には元気な男の子が生まれました。この男の子は「善日麿(ぜんにちまろ)」と名付けられ、この善日麿こそが後の日蓮聖人です。
幼い頃より賢く、周りからも一目おかれていた善日麿は道善房(どうぜんぼう)という僧侶からの申し出を受け、1233年に薬王麿(やくおうまろ)と改名し、清澄寺(せいちょうじ)というお寺へ預けられます。1237年、16歳で「是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)」と改名し、「日本一の知恵を授かりたい!」という常日頃のお祈りの甲斐あってか、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)様〈無限の知恵や慈悲を持った菩薩様〉より「知恵の玉」を授かります。こうして翌年1238年の秋、蓮長は長い長い修行の旅に出るのです。


【立教開宗の時】
月日は流れ、蓮長はついに『法華経』という本当の教えを見つけました。1253年4月28日32歳の頃、虚空蔵菩薩様と道善房上人にお礼を言う為故郷へ帰った蓮長は清澄山朝日が森の頂上で海の向こうに昇るお日様に向かって『南無妙法蓮華経』と唱えました。これが私達もよく唱えているお題目の始まりです。この時自ら「日蓮」と改名し、「お日様の様に、分け隔てなく光を注ぎ、蓮の花のように濁った所にでも美しい華を咲かせる・・そんな素晴らしい教えを社会に弘めていこう」と決意を固め、さっそく人々へ初めてのお説教を行いました。
ところが、日蓮聖人のスタートは厳しいものでした。「法華経以外のお経を尊ぶから、様々な災難が起こる。法華経の信仰を打ち立ててこそ、人々は救われる。」と話した事で、それまで他宗の信仰者であった地頭東条景信(とうじょうかげのぶ)をはじめとした民衆の怒りを買いました。それでも日蓮聖人はこの反応を覚悟しており、その上でゆるぎない信念で唱え続けたため、遂に景信に清澄山から追放命令を下されます。そして、ご両親を初めての信者とし、次第に信者の数も増え、弟子も持ち、鎌倉へ出発しました。

【立正安国論の誕生】
この頃、各地で暴風雨・洪水・大地震・飢饉が多発し、鎌倉では火事が起こり、人々は怯えていました。鎌倉の松葉ヶ谷(まつばがやつ)に草庵(そうあん)〈小さな家〉を持ち、1258年2月、日蓮聖人は災害の原因を調べようと静岡県の実相寺(じっそうじ)に籠り、毎日毎日書物とのにらめっこが続きました。
ある日、『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』という論文にまとめ、1260年7月16日39歳の頃、時の実権者北条時頼(ときより)に提出します。『立正安国論』の内容は「このままいくと内乱や他国からの侵略が起こるでしょう。今こそ国・国民が心を一つにして正しい教えを見つけましょう。その正しい教えは〈法華経〉なのです。」というものでした。法華経信者でない時頼は怒り、この事はすぐに鎌倉中に知れ渡り民衆の怒りも爆発しました。

【身延山での生活~入滅】
4月8日、幕府は鎌倉に戻った日蓮聖人を呼び、蒙古襲来がいつになるのかを尋ねました。聖人は「今年中には来ます」との予言通り、10月に蒙古軍は攻めてきましたが、幕府は日蓮聖人の助言を無視し他宗の祈祷をさせるよう命じました。「三度諌めて聴かざれば、即ちこれを去る※」という中国の故事にならい、聖人は山梨県身延山(みのぶざん)へ入山しました。身延山でも様々な出来事がありましたが、一日も休むことなく布教と弟子の育成に情熱を注いでいき、1281年には草庵を改築し、久遠寺(くおんじ)と命名しました。これが現在の日蓮宗の総本山です。
1282年日蓮聖人は体を悪くし、療養と父母の墓参りの為に身延山に別れを告げました。途中信者である池上宗仲(いけがみむねなか)の邸に立ち寄りましたが、2.3日滞在した10月13日、ついに亡くなりました。この時、突然大地が揺れ、季節外れの桜が咲き乱れたといわれており、現在もこの桜は10月頃から花を咲かせます。これが由来で御会式には紙で作った花(桜)を飾るようになりました。
※「臣下が君主の過ちを三度諌めても聞き入れられない時はその位から去る」の意味~礼記より


次回は日蓮聖人の度重なる法難と奇跡について書いて行こうと思います。