舎利弗、如来は能く種種に分別し、巧みに諸法を説き、
舎利弗よ。仏は相手と場合に応じて、色々と説き方を変え、巧みに多くの教えを説き、
言辭柔軟。悦可衆心。
言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。
しかも常に易しく、やさしい言葉で説き、人々の心に喜びを与えてきました。
舎利弗。取要言之。無量無邊。未曾有法。佛悉成就。
舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり。
舎利弗よ。要するに、仏というのは、人間では想像もつかないほど、未だかつてない最高の教えを完全に成し遂げているのです。
止。舎利佛。不須復説。
止みなん、舎利弗、復た説くべからず。
もうやめましょう、舎利弗よ。これ以上この事を説いても仕方ありません。
所以者何。佛所成就。第一希有。難解之法。
所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。
なぜなら、仏の成し遂げた悟りの世界は最もすぐれたもので、仏の境地に至らなければとてもじゃないけれど理解する事は出来ません。
唯佛與佛。乃能究盡。諸法實相。
唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。
ただ仏と仏が語り合う事によってのみ、その教えを極め尽くす事ができるのですが、それは存在するあらゆる物事[現象=諸法(しょほう)]を欲望のないありのままの姿[真実=実相(じっそう)]で見る事のできる者同士でなければならない、という事なのです。
所謂諸法。如是相。如是性。如是體。如是力。
所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・
ありのままの姿とはどのようなものなのかといえば、それはあらゆる存在(現象)は持ち前の姿形(すがたかたち)〈相(そう)〉があり、性質〈性(しょう)〉があり、それらを具(そな)えている本体〈体(たい)〉があり、持っている力〈力(りき)〉があります。
如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。
如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報
〈力〉があれば、それが働きかける作用〈作(さ)〉を起こします。その働きを起こすまでには必ず原因〈因(いん)〉と機会・条件〈縁(えん)〉が伴い、千差万別(せんさばんべつ)の結果〈果(か)〉と影響〈報(ほう)〉を生み出しているのです。
如是本末究竟等。
如是本末究竟等なり。
全ての物事はこの初め〈本(ほん)〉の相から始まり〈末(まつ)〉の報までが互いに平等に関わり合って、展開していくのです。※2
※1→前回の欲令衆のお話で「この世の生きとし生ける全ての物事人は、全て仏になる事が出来る本性を具(そな)えているのですよ」とお釈迦様が何度もおっしゃっていたというお話をしたのを覚えていますか?実は方便品の重要ポイントはここにあります。
かつてお釈迦様は大きく分けて3つの教えを説かれていました。なぜかというと、元々お釈迦様には大勢のお弟子さんや信者さんがいらっしゃったのですが、それぞれが十人十色といわんばかりに、知識や経験、教養、地位などが異なっていたので、その結果約84,000という多種多様の経典が作られることになりました。これらの経典は決して一様ではありませんでしたが、全て衆生を導く為の方便として説かれたのです。それはどんなものだったかというと・・
①《声聞(しょうもん)》=声聞はお釈迦様の説法を直に聞いて修行するお弟子さんの事で、先程の舎利弗さんもこれにあたります。「仏様の教えを聞いて自分を救いなさい」という教えです。
②《縁覚(えんがく)》=縁覚は辟支仏(ひゃくしぶつ)ともいい、山に籠(こも)って集団生活をしない修行者のように、師匠の元におらず自分一人で悟りを開く人の事です。自分の体験により仏の道を開こうとする教えなのです。
このように分かれてはいましたが、教えを受ける方は、余りにも自分の悟りに固執(こしつ)してしまって、周りの幸せを考える余裕がなくなってしまっていました。でもこれは仏様の教えではなくなりますし、このような方々はこのままでは仏様にはなれません。家族の中で考えてみても、自分は悟った、宗教的に目覚めたといっても、同じ屋根の下で生活をしている家族が苦しんでいたり、悩んでいれば、それは自分の幸せにはなりませんね。そこで出てきた教えが、
③《菩薩(ぼさつ)》=自分だけでなく、人々を教化(きょうけ)して仏の道を導く人の事で、「自分だけ救われるのは本当に救われた事にはならないよ。他を救う行いが自分を救う事になるんだよ」という教えです。
ただ③の人々は①や②の人々を強く批判していました。ちなみに仏教の中でも現在、様々な宗派があるのはこういう教えにしても何が本当に正しいのかという考え方(お経)に相違があるからですね。例えば①や②の人々を批判し、「③の人達だけが仏になる事ができる」としている宗派も沢山あります。
しかし、私達の唱えている法華経の方便品に限っては少し違います。お釈迦様は「①の人も②の人も仏になる事ができるんだよ」とおっしゃっているのです。お釈迦様はあくまでそのTPOを考えての方便をもって教えられたのですから、①も②も批判しているわけではありません。この方便品に書かれている教えは、『この世の生きとし生ける全ての物事人は全て仏様になる事が出来る本性を具えているのですよ』という事を何度も伝えられています。それを証明したのがあの舎利弗さんです。舎利弗さんは①の代表格的な方です。でもお釈迦様の言葉を聞いて、自分の間違いに気付いたのです。そして考え方を改めた舎利弗さんはやがて、お釈迦様に華光如来(けこうにょらい)という仏としてのお名前を頂きます。こうした「③だけでなく①も②の人も仏になれますよ」という思想を二乗作仏(じじょうさぶつ)といい、法華経の中で重要な教えとなっています。
※2→所謂諸法(しょいしょほう) 如是相(にょぜそう)・・から始まって本末究竟等(ほんまつくきょうとう)までを十如是(じゅうにょぜ)といいます。この「如是」とは必ず具わっているという意味です。お釈迦様は「物事をありのままの姿で見る事が仏になる必須条件ですよ。」と大変重要視されている事から、強調の意味を込めて、この部分は必ず3回繰り返し読む事になっています。
今年大ヒットした映画の主題歌で「ありのままの~♪」という歌がありますね。この歌は自分のありのままの姿を素直な気持ちで見せる事が、本当の自分の幸せになる・・という歌です。今回のお話に関しても、お釈迦様は物事をありのままの姿で見る事・感じる事が大切なのだとおっしゃっていますが、私達はいつでも物事を欲望という色眼鏡で見てしまい、自分の存在さえも偽ってしまいがちです。「もっと素直な気持ちで、自分を含めて見つめていく事が自分だけでなく周りの幸せにもつながるんだよ」と切に伝えていらっしゃるのでしょうね。
ずいぶん長くなってしまいましたが、ご拝読ありがとうございました。
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