2014年12月2日火曜日

掃除と仏教について①

今年も残すところあとわずかとなりました。みなさんのご家庭でも年末になると大掃除をする事と思いますが、今回は掃除と仏教について少し書いて行きたいと思います。

【掃除は修行】
昔から、日本仏教世界の日頃の修行として「一、作務(さむ) 二、勤行(ごんぎょう) 三、学問」といわれてきました。まず、1番が『作務』です。作務とは掃除や片づけ、庭の草取りや、昔ですと薪を割ったりお風呂を沸かしたり・・簡単にいうと、体を動かす作業の事です。その中でも作務の代表格は掃除です。皆さん『作務衣(さむえ)』という言葉の方が馴染みがあると思いますが、これは元々お坊さんがこのような作業を行う時の服装から来たものです。現在は一般の方々も着ていらっしゃったり、時には飲食店の制服にもなっていたりして、お寺以外でも目にする機会が増えましたね。
2番目の勤行とは、お経を読む事です。そして最後の学問はお経や仏教に関する知識のお勉強です。今の時代なら「一に勉強、二に勉強、掃除なんかしなくて勉強しなさい」と言われそうですが、お寺のお坊さんは掃除が1番です。仏教は人格を完成させる為の教えで、その手段としてお経を読んだり知識を得る事も勿論大切なのですが、「なんだそんな事」とおろそかにされがちな掃除などが、実は心を磨くのに大変重要な事なのだと教える為に作務はお坊さんの勤めの1番になっているのです。

【身の周りを磨くのは心を磨く?!】
仏教のお話ではありませんが、作務に繋がるお話です。
日本には昔から剣道・弓道・柔道・茶道・華道など○○道といわれる武術や稽古事がありますが、それらの稽古の前と後には必ず稽古場の掃除をします。例えば剣道にしてみれば剣の奥義を極める事は即ち、人間の奥義を極める事で、その為に道場の清掃は極めて大切な修行なのです。学校では毎日生徒が掃除をし、学期末には大掃除を行いますね。それはただ綺麗にする、というだけでなく『人の心を磨く』という重要な意味が込められているのです。

【お掃除と仏教のお話①】
インドやタイなどの仏教僧は掃除などの労働はしません。日本や中国の僧侶は作務といって労働をします。いつ頃からかどのように変わったのでしょうか。
それは中国の唐の時代、達磨大師(だるまたいし)から8代目の百丈懐海禅師(ひゃくじょうえかいぜんじ)からだといわれています。百丈禅師は西暦800年頃に百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)といわれる禅道場の修行の規則を作られた方です。現在でも、禅宗の修行道場の規則はこの清規の基づいています。
それまでの修行僧は労働には携わっていませんでしたが、百丈禅師は作務の中に宗教性を見出し、修行に作務を取り入れました。百丈禅師は95歳の天寿を全うされたという方で、高齢になってからも修行僧と一緒に作務に従事し、1日も怠る事がありませんでした。しかし弟子達は、老体の禅師が作務に励んでいる姿を見てその身を案じ、何度も作務を休むようお願いします。ところが禅師は聞き入れません。そこで弟子達は相談し、禅師専用の作務の道具を隠してしまいました。「道具がなければ禅師が作務を休まれるだろう」という弟子達の考えです。作務の合図の鳴らし物の音を聞き、出てきた禅師は、自分の道具がないので部屋に戻りました。それから以後、膳をすすめても決して箸を取りません。老体の禅師の身体を心配して道具を隠して休んでもらおうとしたのですが、かえって食事を摂らなくなってしまい、弟子達は困惑しました。
それが3日も続き、とうとう1人の弟子が「和尚は3日も食事を摂られませんが、なぜですか」と問いかけました。その時の禅師の答えが『一日不作一日不食〈いちじつなさざれば、いちじつくらわず〉』との一言。「私は今日1日何もしなかったのだから、今日は食べる事をやめにしよう」というのです。驚いた弟子達がすぐに道具を整えると、禅師は喜んで作務に出て、それ以後は平常のように食事も摂るようになったそうです。
この『一日不作一日不食』という言葉は『働かざる者食うべからず』とは違います。前者は『今日一日、私はこの食事が頂けるだけのつとめをして来ただろうか?』と自分で自分を反省し、律していくのに対し後者は、『お前は今日一日この食事を頂くだけのつとめをして来たのか?』と他人によって律せられる、という意味になります。自ら進んで食事を抜く断食と、他人から強制的に断食をさせられるのでは、同じように見える断食でも大変な違いがあります。
例えば、人が見ている前ではゴミはゴミ箱に捨てるけれど、見ていなければポイっとそこら辺に捨ててしまう・・。こんな身近な事も周りによって、ではなく自分自身の心がけが問われる事ですね。

次回もう少しこのテーマで書いて行こうと思います。

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