2014年9月6日土曜日

欲令衆のお話


≪欲令衆≫

諸仏(しょぶつ)()(そん)は、

衆生(しゅじょう)をして(ぶつ)()(けん)(ひら)かしめ清浄(しょうじょう)なることを()せしめんと(ほっ)するが(ゆえ)に、()出現(しゅつげん)したもう。

衆生(しゅじょう)に  (ぶっ)知見(ちけん)(しめ)さんと(ほっ)するが(ゆえ)に、()出現(しゅつげん)したもう。

衆生(しゅじょう)をして(ぶつ)知見(ちけん)(さと)らしめんと(ほっ)するが(ゆえ)に、()出現(しゅつげん)したもう。

衆生(しゅじょう)をして(ぶつ)知見(ちけん)(どう)()らしめんと(ほっ)するが(ゆえ)に、()出現(しゅつげん)したもう。

舎利(しゃり)(ほつ)、これを諸仏(しょぶつ)唯一(ただいち)大事(だいじ)因縁(いんねん)(もっ)ての(ゆえ)()出現(しゅつげん)したもうと(なず)く。

仏様は一体どうしてこの世に出現されたのかというと・・それは世の中の大勢の人達に仏の知見(ほとけのちけん:悟り)を開かせる為なのです。「私達人間がなぜ生まれてきたのか、人間として生きていくというのはどういうことなのか・・」この事を私達に悟らせる事だけを唯一の仕事としてこの世に出現されたそうなのです。私達の為に悟りを開いて、示して、悟らしめ、入らしめる・・この「開・示・悟・入」は悟りが次第に深まっていく過程です。

「開」=あらゆるものを汚(けが)れなく見る智慧(ちえ)。これは元々人間の心の奥底に仏性(ぶっしょう)として埋め込まれているのに、普段は煩悩(ぼんのう)という雲で隠れて見えないので、物事を損得等を考えずに見るように気づかせてくれる事を開仏知見(かいぶつちけん)と言います。

「示」=「開」の時点で咲いている花を美しいと思ったとすれば、その花が確かにここにあるんだよ、と実感させる事です。人の行くべき正しい道を示してくれるというのがこの「示」なのです。

「悟」=美しい花を実感するように、物事全てを美しいと私利私欲(しりしよく)なく見る事が出来るようになる事です。

「入」=物事全てを美しいと思うと、今度は存在するもの全ての中に仏様がおられて、その仏様が常に説法しているのだな・・と感じる事が出来ます。ここで初めて本当の悟りになります。

例えば、苦しい経験をしても「嫌な経験だったな」と思うより、これは同じように苦しんでいる人の気持ちがわかり、その人達を救えるようになる為の勉強なんだと感じる事も一つの悟りです。そしてお釈迦様は『この世の生きとし生ける全ての物事人は、全て仏になる事が出来る本性を具(そな)えているのですよ』と何度も伝えられています。つまり、前回書いた増上慢5000人の人々にもそれが当てはまるのだとおっしゃっている事になります。まさに「海よりも広い心」の境地が本当の悟りになるのでしょうね。

次回はいよいよ『妙法蓮華経方便品第二』の現代語訳などを書いていきます。どうぞお楽しみに。
 
 
 
 
 

2014年9月2日火曜日

方便品(ほうべんぽん)のお話

先月、「開経偈(かいきょうげ)」について書きましたが、それに続きまして今回は「方便品(ほうべんぽん)」について書いていこうと思います。ここからが本格的なお経の始まりで、少しずつ難解になっていきますが、皆さんがよく読まれるお経ですので、これから書く解説が少しでも参考になれば幸いです。



【妙法蓮華経方便品第二(みょうほうれんげきょうほべんぽんだいに)ほどんな意味?】
日蓮宗のお経のうち、最もよく読まれる二つのお経の中の一つです。『第二』とありますが、お釈迦様の説かれた法華経は全部で二十八(品)あります。その中の2番目のお経という意味です。では方便品はどういうお経なのでしょうか?

まず「方便」の「方」=「正しい」、「便」=「手段」という意味です。つまり「方便」は「正しい手段」→「悟り(仏様)へ近づく方法、悟りに近づかせる手段」という事になります。

お釈迦様の真実の教えは法華経にある、と言われています。この方便品はまさに、仏になる為の手段を主題にしているお経です。ちなみに、一番初めのお経である序品(じょほん)第一では、お釈迦様が深い瞑想(めいそう)に入られたお話が内容となっていて、お釈迦様の説法はこの方便品から始まり、法華経における大変重要な事を意味するといわれているので、いつもこのお経が読まれます。では、どんな重要な内容なのでしょう?

お釈迦様は遠い過去に、沢山の仏様に仕え、この上なく深い教えを悟られました。更に、ご自身も仏となってからはその教えを様々な人に合わせて、前世の物語や喩(たと)え話を通して伝えていき、導いて来ました。そんなお釈迦様は「仏の心は仏になった人しかわからないのだよ」として、その尊い教えは仏様だけが極める事ができ、その真理を理解する事はとてもたやすい事ではないと、方便品の中で何度もおっしゃっています。私達の世界でもよく聞かれる「親の気持ちは親になった人にしかわからない」のと同じような感覚でしょうね。

このお経の中では「舎利弗(しゃりほつ)」という言葉がよく出てきます。これは、お釈迦様の十大弟子のお一人で、徳と智慧(ちえ:正しく物事を認識し判断する能力)に非常に優れた方でした。そんな舎利弗の智慧をもってしても、最高の教え・真理を知る事は困難だと言われました。それでも舎利弗は弟子達を代表して、何度もお釈迦様に「どうか私達にもその真理をお説きください」とお願いしましたが、お釈迦様はその都度、「やめましょう。もしこれを説いたなら、全ての人々はただ驚くばかりでとても信じられないだろう。」とお断りします。現代語訳を読んで頂けるとわかると思いますが、実は私達がよく読んでいる方便品は、この舎利弗さんに対して、お釈迦様がお断りしているシーンで、実際の方便品のほんの最初の部分です。

その後、あまりにも熱心な舎利弗のお願いに、お釈迦様もその気持ちに応える事にしたのですが、この後お釈迦様の案じていた事が的中してしまいます。お釈迦様がいざお話をされようとした時、その場にいたひとびとの中から突然、5000人のお弟子さん達が、スタスタとその場を立ち去ってしまったのです。彼らは自分達がすでに悟っている完成型だと思い込んでいた為、仏にしかわからないとプライドを傷つけられ、怒って去っていったのです。ちなみにこういう思い上がったプライドの高い人達の事を仏教では「増上慢(ぞうじょうまん)」といいます。私達の時代にもこの「増上慢」さんはチラホラ見かけますね。いつでも自分だけが正しく、絶対なのだから人の意見に耳を貸そうとしない、そして相手を見下してしまいます。そういう人が一人でもいるといつの世もその場の雰囲気は決して良い物ではありませんね。

お釈迦様は結局その5000人の人々に対して引き留める事はせず、「退(の)くのもまたいいでしょう。」とおっしゃったそうです。本当の真実というものは誰にでも聴かせるものではなく、まずは本当に必要としている人達に聴かせるものだとお考えになったのですね。「お釈迦様の教えはもうわかっている、これ以上聞く必要はない。」という考えの人と「お釈迦様が説かれるのだから、何度聞いてもいいし、また聞くたびにその教えが一層深くなるな。」という考えの人との違いで他人の言う事を謙虚に聞くという慎(つつし)みを持てるのかどうか・・それも教えの一つのはずです。お釈迦様はそんな聞く耳を持たず、もう他の何も入り込む余地がなくなっていった人々に、「それならもう聞かなくていいよ」とばかりに潔(いさぎよ)い判断をされたのです。

さて、増上慢の人々が去って、本当に教えを求める人達だけになるとお釈迦様は「いよいよ説くべき時が来ました。この法華経はしばしば説かれるものではなく、3000年に一度しか咲く事がないといわれる優曇華(うどんげ)の花の様に、説くべき時が来なければ説かないのですから、心して聴くのですよ。」と語り始められました。きっとこの場にいた人達はワクワクした事でしょうね!

そしてお釈迦様は『出世の本懐(しゅっせのほんがい:仏様がこの世に生まれた真の目的)』を説かれます。それがお経本に載っている『欲令衆(よくりょうしゅう)』の最初の部分です。実はこれも方便品の一部なのです。ちなみに先程の5000人のお弟子さん達が去っていったお話等も方便品のお経として、元々の正式なお経本に載っています。

少々長くなってしまいましたが、次回はこの欲令衆の最初の部分の解説を書いていこうとおもいます。