2014年12月18日木曜日

掃除と仏教について②

少し間が空きましたが、前回の続きです。

【お掃除と仏教のお話し②】
昔々お釈迦様の弟子に、ある兄弟がいました。兄の摩訶槃特(まかはんどく)〈マハーパンタカ〉はお経の勉強もよくできましたが、弟の周利槃特(しゅりはんどく)〈チューダパンタカ〉は、物覚えが悪くて、朝聞いた事も夜になると忘れてしまう位の人でした。その上自分の名前も覚えられず、背中に自分の名前を書いてもらい、人に名前を聞かれると、自分の背中を見せて名前を教えるほどでした。ですから他の弟子達からいつも馬鹿にされていました。余談ですが、野菜の『茗荷(みょうが)』「名を荷(にな)う」と書きますが、この由来は自分の名前を覚えられずいつも背中に背負っていた周利槃特のお墓から生えてきたそうです。昔から『茗荷を食べると物忘れをしやすくなる』と言われているのも、この周利槃特の忘れっぽい性格からきていたのです。

彼はそういう自分が情けなくなって、お釈迦様の所へ行き「こんな愚かな私はもうお坊さんをやめたいのです」と相談しました。するとお釈迦様は「本当に愚かな人は自分が愚かである事を知らない人です。お前はちゃんと自分を知っている。だからお前は愚かではないよ。」と言って、彼に一本のホウキを持たせて「綺麗にしよう」という言葉だけ教えたのです。周利槃特はそれから何年も、その短い言葉だけを忘れそうになりながらも繰り返し言いながら掃除をし続けました。ある日、いつものように庭を掃いていると、お釈迦様が「ずいぶん綺麗になったね。だけどまだ一カ所だけ汚れている所があるよ」と声をかけたのです。

周利槃特は不思議に思い「どこが汚れているのですか」と尋ねましたが、お釈迦様は教えてくれません。「はて、どこだろうなあ?」と思いながら、それからもずっと「綺麗にしよう」と言いながら掃除を続け、結局何十年も経ったある日「そうか、汚れていたのは自分の心だったのか」と気付いたのです。その時、お釈迦様が彼の後ろに立っていて「やっと全部綺麗になって良かったね」と言いました。この時、周利槃特は皆に好かれる誰よりも心の優しい人になっており、阿羅漢(あらかん)という聖者の位に就きました。

皆さんも、その状況を想像してみて下さいね。最初は掃き方も下手で、わけも分からずに一生懸命掃いているのです。しかし、そのうちに掃除にも慣れてきて「あの隅っこが汚れているぞ」と気が付いたり、掃いてもしばらくするとまた汚れてくる事や、「綺麗に掃けたなあ」と思っても、光が差し込んでくると空気中にいっぱいのほこりが浮かんでいるのが見える。その中で「いくら掃いても綺麗にならないものだなあ・・。あっ!自分の心もそうじゃないのかなあ」と、気付いたのです。「お釈迦様はなぜ自分に掃けといったのか。それは結局『自分の心を掃け』ということだったのだなあ」と悟ったというわけなのです。


現代社会では『思いやり』という言葉が存在しますが、この『思いやり』の訓練を何日も、何年も、いや生涯続ける事が出来れば、周利槃特が阿羅漢になったように、誰でも人を引き付ける立派な人格を身につける事ができます。『成功に秘訣というものがあるとすれば、それは他人の立場を理解し、自分の立場と同時に他人の立場から物事を見る事の出来る能力である』自動車王ヘンリーフォードの言葉です。思いやりこそ、人生を成功に導く鍵なのですね。

思いやりに限らず、このお話は『一人一人がするべき事をひたすら一生懸命諦める事無く実行していけば、その結果は必ず素晴らしいものになるんだよ』というお釈迦様から私達へのメッセージなのではないかと思います。

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