2014年5月24日土曜日

仏教用語 その①

今回は私たちの日常的に使っている仏教用語についていくつか書いていこうと思います。意外と我々が普段何気なく使っている単語が仏教に関係したものだったりします。思いつくままにいくつか紹介していきます。

[スジャータ]
ラジオの時報CMでおなじみだったコーヒーに入れるミルクの商品名ですね。この商品の由来である「スジャータ」はインド人女性の名前でサンスクリット語で「良い生い立ち、素性」という意味を持ちます。お釈迦様は六年に渡る生死の境を行き来するような激しい苦行を続けましたが、苦行だけでは悟りを得る事が出来ないと理解して、修行を中断し体を清める為にやっとの思いで付近の川に沐浴をしに行きました。この時にスジャータ―という娘がお釈迦様に乳粥を差し出してお釈迦様の命を救いました。粥を食し、沐浴をして、心身共に回復したお釈迦様は、心を落ち着かせ近隣の大きな菩提樹の下に座して十二月八日、遂に悟りを得て、仏教が誕生しました。お釈迦様にとって欠かせなかったこの女性のように、コーヒーを一層美味しく頂くのに欠かせない商品になりたい、という強い思いが込められているのかもしれませんね。

[玄関]
本来は建物の名前ではなく、「玄」妙な道に入る「関」門という意味で、奥深い教えに入る手始め、糸口を指していました。「禅門に入る」などがそれです。もともと禅寺の門や学問所である書院の入口・本堂の昇降口はこの本来の意をとって玄関と呼ばれていました。やがて室町時代から桃山時代にかけて武家や公家の住宅は禅寺の書院の形式をとりいれるようになり、さらに江戸期に入ると名主の家にその形式が許されるようになり、ついには町人たちの家にも玄関が定着していったようです。

[くしゃみ]
ある時、お釈迦様がくしゃみをしました。すると、弟子たちが一斉に「クサンメ」と唱えて、お釈迦様の健康を願ったという事です。「クサンメ」は、インド語で「長寿」という意味です。インドではくしゃみをすると命が縮まるといって、「クサンメ」と唱える風習があったといいますから、これは長寿を祈る呪文立ったのかもしれませんね。このクサンメは「休息万命」「休息万病」と音写されています。これを早口で何度も言ってみて下さい。「クサメ」になりませんか?くしゃみはクサメから転訛したものだそうです。

[楊枝]
楊枝は楊子とも書き、歯を掃除する用具で、つまようじや歯ブラシのことをいいます。インドの修行僧が持っている道具を、六物とか十八物とか呼んでいますが、楊子は、その十八物の一つとなっています。柔らかい木の小枝を取り、その枝端をかみ、その汁で歯を磨き口を洗ったので、歯木(しぼく)とも言いました。この習慣は中国へ伝えられましたが、中国では楊柳で作ったので楊枝の語が生まれたといいます。日本へは仏教伝来と共に伝えられ普及しましたが、洋風歯ブラシ全盛の現在、つまようじだけが面影を残しているようですね。

[阿弥陀くじ]
阿弥陀くじは昔、お金や物の配分や分担などを決めるためにつかわれたものです。元々は現在のような縦横の線を組み合わせた形のものではなく、くじを引く人数分だけ放射状の線を引き、その中央に金額を隠して書いて、それを引き当てた人がその額を分担するなどという方式であったみたいです。この図形が阿弥陀像の後ろにある放射状に伸びた光背(=後光)に似ているところから、この名が生まれたそうです。「くじ」というのは現在では物事を“機械的”に決めるものと思われているようですが、もともとは、仏意や神意を問いかける意味合いの、きわめて神聖な宗教上の行いの一つであり、今現在のくじとはかなり趣のちがうものだったようです。

今後も機会がありましたらこのような形で書いていきたいと思いますのでまたよろしくお願いします。

2014年5月17日土曜日

鬼子母神様

前回に引き続き「鬼子母神」についてです。
なぜハーリティは王舎城の街で子供達をさらい、食い殺すなどという酷い事をしてしまったのでしょうか?それはお釈迦様がお生まれになるよりもずっと遠い昔に王舎城で起こった出来事に起因していたのです。

昔々のとある日に都のはずれにある牛飼いの女性がたまたま王舎城の街に出てみると、街中がとても賑わっていてまるでお祭りのような雰囲気でした。住民に尋ねてみると、もうすぐ尊い聖者の方が街を訪問されるとの事。人々は幸せに授かろうと、聖者様を迎え入れる為に皆楽しそうに歌い踊っています。その輪の中に彼女も誘われ、一緒になって踊っていました。その最中彼女は激しいお腹の痛みを訴えます。この女性は子供を授かっていたのです。激しく動いたせいでその場で彼女は流産してしまいます。ところがさっきまで一緒に楽しく踊っていた住民達は「自分が悪いんだ。私達は関係ない。」とばかりに誰も女性を助けず、慰めの言葉すらかけず、見て見ぬふりをして福を授かりたいと聖者様をお迎えに行ってしまいました。
心身共に傷ついた彼女は、悲しみにくれながら帰路についていました。その途中都で噂されていた聖者様に出会います。女性は「貧しい御供養ですが御受け下さい」とわずかな牛乳を差し出しました。聖者様は「あなたの願いが叶うように御供養をお受けします」と言ってそれを受け取ります。彼女は感謝し幸せを祈りつつも先程の薄情な都の人達の事が忘れられません。険しい表情と共に祈った願いは「失った赤ちゃんの為に、あの人達も私と同じ苦しみを味わえばいい。私が死んだらきっともう一度この王舎城に生まれ変わって人の子を皆食い殺してやろう。情け知らずは報いを受けるがいい。」というものでした。

そうですハーリティはこの恐ろしい誓いをたてた牛飼いの女性の生まれ変わりだったのです。
このようにこの鬼子母神様のお話はそもそも薄情な王舎城の人々から始まったものですが、それに対し「目には目を」と思い復讐したハーリティにより人々は苦しみます。またハーリティもピンガラを失い苦しみます。


まあ最後はお釈迦様の導きによって、ハーリティは子供達を守る鬼子母神様となり、人々も苦しみから解放されるわけですが、人間というものは苦しみを自分自身で経験しなければ気付かない事が多いのではないかと思います。そしてそこから自分の周りへの感謝・慈しみ・思いやりなどが生まれてくるのかもしれませんね。

2014年5月9日金曜日

母の日にちなんで・・・

5月11日(日)は母の日ですね。本来「母」の心はとても深くて広いとよくいわれますが、仏教では偉大で有名な「母」という名がつく神様で「鬼子母神」という神様がいらっしゃいます。今回はこの鬼子母神様について書いてみます。

昔々古代インド、マガダ国の首都である王舎城という街で、次々に子供がさらわれるという事件が起こりました。どんな方策を講じても一向に効きません。人々はこれは夜叉鬼神のしわざとおもい鬼神供養までするのですがやっぱり効きません。ある日人々は同時に夢をみます。夢の中に天神さまが現れて、「子供をさらっているのはハーリティという女夜叉の仕業で、子供を食い殺してしまう。それを救う道はお釈迦様にお願いするより他に道はない」と。しかしハーリティは王舎城を守るサプタ夜叉という神様の姉でした。人々はなぜハーリティがそのようなことをするのかわからずお釈迦様のもとを訪れ、必死にすがりました。
あくる日お釈迦様はハーリティの住む山に出向かれました。ハーリティには五百人の子供がいましたが、彼女が留守の間に一番可愛がっている末っ子のピンガラを鉢の中に封じ込めてつれて帰りました。しばらくして何も知らないハーリティはいつものように子供をさらって帰り着き、子供達を呼び寄せましたがピンガラの姿が見当たりません。ハーリティは七日間世界中を探し回り、ついにお釈迦様の元に辿り着き、子供の行方を尋ねました。そこでお釈迦様は子供を失う親の悲しみを悟らせ、仏法に帰依させます。その後彼女は世の全ての子供達を守り、困っている人々を助け、仏の道を説き弘める方々を守護する善神の鬼子母神様となりました。

このお話はご存知の方も多いでしょうが、そもそもなぜ本来王舎城を守るべき立場にあるハーリティがこのようなことをしてしまったのでしょうか?次回はその謎についてせまります!

2014年5月2日金曜日

こどもの日

端午の節句

端午の節句の起源は古代中国にさかのぼります。古来より中国では五月には厄払いの行事が盛んに行われていました。端午の「端」は文字通り「はし・最初」の意味で、「午」は「うま」、つまり端午とは五月の最初の午の日という意味です。後に「午」と「五」のゴロが同じ事から、この行事はやがて五月五日へと定着していき、人々は蘭の湯に浸かり、薬草である菖蒲酒を飲み、その菖蒲で体のけがれを払って健康と厄除けを願いました。これが奈良時代には日本へも取り入れられ、後に宮中から鎌倉の武家社会へと拡がります。特に武士は菖蒲を「尚武(しょうぶ)=武士をたっとぶ」とかけて、端午の節句を尚武の節目として盛んに祝うようになりました。やがて江戸時代に入ると幕府は五月五日を重要な式日とし、大名や旗本が式服で江戸城に参り、徳川将軍にお祝いを奉じるようになります。また将軍に男の子が生まれると、門前に馬印やのぼりを立てて祝い、徐々にこの風習は武士だけでなく広く一般の人々にまで広まっていきます。こうして時代と共に端午の節句は男の子の誕生と成長を祝うお祭りへとなっていきました。

お外に飾るのはなぜ鯉なのか?
鯉のぼりは皆さんも耳にされた事がある『登竜門』の伝説が起源とされています。昔々中国の山奥に「龍門」という滝がありました。ある時、一匹の鯉が激しく落ちる滝水に逆らいながらも、懸命に滝を登り切ったまさにその時!鯉の体はまぶしい光を放ちながら龍へと変身し、悠々と天に昇っていったと伝えられています。元々中国では、龍は皇帝の象徴ですから、とても縁起の良いものだとされていました。このお話が日本にも伝わり、端午の節句に武士のものであるのぼりを飾る事を許されなかった一般家庭に、子供の立身出世の象徴として、鯉のぼりが飾られるようになりました。また、子供が産まれた家では「この家の子をお守りください」と天の神様に向かって願う目印として立てたというお話もあります。




柏餅は和食、ちまきは中華
ちまきは中国の行事とセットで日本に伝わってきた習慣です。元々は「茅(ちがや)」の葉で包んでいた為、「茅巻き(ちがやまき)」と呼ばれていました。「茅」は「ち」とも言い、主に「ち」が用いられる事が多かった為、「ちまき」と呼ばれるようになりました。紀元前278年、戦国の世だった中国に高名な詩人「屈原(くつげん)」という人がいました。屈原は国王の側近として仕え、人々からも慕われていました。しかし陰謀の為、国を追われる事になった屈原は、ついに汨羅(べきら)という川に身を投げてしまいました。この日が五月五日でした。屈原の死を悲しんだ人々は、沢山のちまきを川に投げ入れて弔いました。これが端午の節句にちまき作って食べる由来です。
一方、柏餅は日本古来のもので、新芽が出ないと古い葉が落ちない事から、「子供が産まれるまで親は死なない」すなわち「家系が絶えない」縁起に結びつけ、「柏の葉」は「子孫繁栄」に繋がるとされ、食べられるようになりました。元々は古来中国から伝わった行事の中で、柏餅の風習だけが日本独特のものだというのも何だか不思議な事ですね。