2015年7月30日木曜日

病と健康と仏教について③

梅雨も明けて本格的に夏がやってきましたね。暑い日が続きますが、水分・塩分・ミネラル等十分にとって元気に夏を乗り切りましょう。

今回は日蓮聖人から学ぶ『病と健康』についてです。

【本当の毒とは?!~日蓮聖人に学ぶお話~】

『日蓮幼少の時より仏法を学び候(そうら)いしが念願すらく、人の寿命は無常なり。出づる息は入る息を待つ事なし。風の前の露、なお喩にあらず。賢きもはかなきも老いたるも若きも定めなき習いなり。されば先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし。』

[訳:日蓮は幼少の時から仏法を学んできたが考えてみるに、人の命は無常である。吐く息は吸い込む息を待つ間もない。風に吹かれて落ちる露よりも儚いものである。賢い人も愚かな人も、老いた人も若い人も、皆いつ死を迎えるか定めのないことである。その為、他の個とはさておいても、何よりも先に自分が死ぬ時に悔いのないような事をまず学ばなければならない(無為に年を重ねないようにしなければならない)。]

これは日蓮聖人が残された言葉です。お釈迦様のおっしゃるように信心し行動に移す事によって寿命を延ばす事はできます。ただ、それも永遠ではありませんね。でもいずれ死ぬからといって、何も考えずに生きていく人はいないと思います。できれば「あぁ・・いい人生だったな。」と思って一生を終わらせたいですよね。では、身体だけ健康であれば、その人の人生は本当にいい人生だったと言えるのでしょうか?

よく人の評判は、結婚式より亡くなった後にわかる、といいます。その方が亡くなった事でどれだけの人が悲しみ、惜しみ、心の中でいつまでも生き続けていくのか・・。そこで日蓮聖人のおっしゃる無為な人生なのかそうでないのかの本質がわかるのかもしれません。

前回のお釈迦様のお話の続きにもなりますが、お話に出てくる“毒”とは・・?本当の私達にとっての“毒”は単に口から飲む訳ではなく、いつの間にか自ら服用しているような気がします。

身近にいえば“矛盾”も人の“毒”になりかねないものの一つです。「健康でありたい。長生きしたい。」と思うけれど、暴飲暴食や運動不足等の不摂生をしたり・・。人には「自分の事をわかってほしい。」と思うけれど、周りの人の気持ちは考えられなかったり・・ついやってしまう“矛盾”ですね。

また“自己中心(自分勝手)”も誰もが取り込んでしまいがちな“毒”となります。お釈迦様のお話の中でもそうですが、例えば自分の親や配偶者等の家族が亡くなればその時は悲しみ、有難みを知るからこそ、家族の言葉と思いを大切にしなければ・・と思います。でも月日が経つにつれていつの間にか人はその気持ちを忘れます。ふとある時「自分はご先祖様に見られても恥ずかしくない生き方を出来ているのか」と問いかけてみる事はしないけれど「自分の両親はじめ家族があの世から見ていてくれている・・。」そう思うからこそいざとなった時、よく「仏様、ご先祖様お助け下さい!」と一生懸命お願いします。でも何もない普段は「今日も無事に朝を迎える事ができました。ありがとうございます。」と本当に思いながら手を合わせる方は少ないかもしれません。もし誰かに自分がお願いばかりされて聞いているのに、いざとなって自分がお願いした時は知らんぷりされるといい気はしませんね。お釈迦様は心が広い方ですが、仏教の中には「そういう自分のわがままばかり考える人生ではいけませんよ」という教えが沢山あります。

強く信じる心や行動、たとえ小さな事でも人に感謝する心を忘れない事、そしてその気持ちをきちんと態度に示す事・・そんな事を歴史を越えていつの世も教えて下さっているのがお釈迦様、日蓮聖人のお言葉(お経)であり、この教えを忘れない事が本当の心の健康につながり、誰しもが素晴らしい人生を築き上げる事ができるのではないかな・・と改めて思います。まさに「病は気から」ですね!


2015年7月19日日曜日

病と健康と仏教について②

前回に引き続き『病と健康』について書いて行きます。今回はお釈迦様のお話です。

【本当の良薬とは?!~お釈迦様に学ぶお話~】

『我等愚痴 誤服毒薬 願見救療 更賜寿命・・』(がとうぐち ごぷくどくやく がんけんくりょう きょうしじゅみょう)
[訳:愚かな私達は誤って毒を飲んでしまいました。どうか治療して下さい。そして寿命をお与えください。・・」

これは日蓮宗でよく読まれる「如来寿量品第十六」の中の《『良医治子』の喩え》に出てくるお経の一部です。このお話しは『法華七喩』の一つでもあります。

昔々あるところに大変知恵があり、沢山の病を治す立派なお医者さんがいました。ある日、そのお医者さんが外国へ出かけている間に、彼の子供達が誤って毒薬を飲んで苦しんでしまいます。帰って来るなりお医者さんは、子供達の為に色・香り・味の優れた薬を作り、早速飲ませようとしました。毒で心を失わずその薬を信じて飲んだ子供達はたちまちに治りましたが、「また苦い毒かもしれない。」と疑って、心を失ってしまって飲まない子供達は苦しみ続けていました。そこでお医者さんはある事を考えつきました。

「子供達よ、よくお聞きなさい。お父さんは今からもう一度外国に行かなければならない。お父さんはもう年寄りだから、いつどこで死ぬかもわからない。もしお父さんが死んでも、きちんと皆で協力して暮らしていくのだよ。そしてここにとても良い薬を置いておくから苦しい時は必ず飲むのだよ。」そういってお医者さんは家を後にしました。その後、彼は子供達の元に使いを出して、「お父さんが旅先で亡くなられました。」と告げさせました。子供達は大変驚き、悲しみ、そして父がいない寂しさと親の有難みを知るのです。そして、薬を飲まなかった子供達が父親の言葉を心から信じて、残していった良薬を飲むとたちまちに病は良くなりました。

子供達の病が完治したという知らせを受けたお医者さんは家に帰り子供達に元気な姿を見せて、親子共々喜び合う事が出来たとの事です。

このお話は〈お医者さんである父親=お釈迦様〉〈色・香・味の優れた(色香美味)良薬=法華経(妙法蓮華経)〉〈子供達=私達衆生〉を表わしているたとえ話です。私達はよくお釈迦様の子供である・・といわれていますよね。

お釈迦様は、「自分がもし入滅しても(亡くなっても)、いつの世も法華経を心から信じ、教えを行う事で、多くの心の病を直す事ができるんだよ。そしていつも、いつの世も見守っているのだから教えを忘れてはいけないよ。」とおっしゃっているのです。

次回は日蓮聖人から『病と健康』について学んでいきましょう。

2015年7月11日土曜日

病と健康と仏教について①

まさに梅雨といった天気の今日この頃ですが皆様いかがお過ごしでしょうか。

気分的にも身体的にも不調になりやすいこの季節・・という事で今回は『病と健康』について書いて行こうと思います。誰しもが日々健康でありたいと思うものでしょうし、そうある為に大なり小なり努力するでしょうが、『病』というものは誰の身にもある日突然ふりかかったりするものです。その際に少しでも皆さんのご参考になれば・・と思い、仏教的観点から『病と健康と仏教』についてお届けします。

【誰しもが持つ無形の財産】

『四苦八苦』という言葉は皆さん耳にしたことがあるかと思います。その中の誰しもが受ける『四苦』のひとつに『病苦』があります。大きな病にかかった事がある方ならわかる事ですが、これまで健康な方には病気の苦しみと言われてもピンときません。健康を当たり前のように思えるからです。病気の苦しさというのは【病】という字にもそれが教えられています。【病】という字はヤマイダレに〈丙〉と書きますね。これは甲乙丙の〈丙〉です。物事に優劣をつけるのを「甲乙をつける」と昔はいいました。甲乙(優劣)つけがたい時に〈丙〉が登場します。

病気になると自分の病気が一番苦しいとしか思えません。高熱で苦しんでいる時は「高熱ほど苦しいものはない」腹痛で苦しんでいる時は「腹痛ほど苦しいものはない」腰痛・歯痛・頭痛・・今自分が苦しんでいる病が一番苦しいと人は思います。だから「自分のかかっている病気の方が、君の病気よりも楽だ」という事はありませんから、甲乙つけがたいので、〈丙〉の字が使われているといわれています。

最近は健康ブームです。食の安全やサプリメントなどがよく話題にされています。それだけ長生きしたいし、病気で苦しみたくないと思うからですね。でもこれも『四苦』の中の老苦等と一緒で避けようのない事です。それなのに、お金等の目に見える財産は減るとわかりますが、健康等の目に見えない財産はその有難さに気付かず浪費してしまいます。病の苦しみから逃れられないという事は一見ネガティブな感じもしますが、逆に言えば今元気でいる事の有難さを知らされる教えでもあります。

『逆境を越える』という言葉があります。いざその境地に立てば、やはり人はイライラしたり、たじろぎ、うろたえ、打ちひしがれるのが普通だと思います。しかしその逆境を乗り越える為にも様々な事に気付くきっかけとなる病の存在を『病恩』と思い、その心構えを日頃から心がけておく事で、逆境を乗り越える事が出来ると思うのです。

次回はお釈迦様と日蓮聖人のお話から『病と健康』について考えていきましょう。