2015年6月28日日曜日

追善供養について③

お布施について

お寺に最もお問合せが多いのがこのお布施についてです。「いくら位包めばよろしいですか?」とお尋ねになる方が多いという事は、施主の方々が一番頭を悩ませていらっしゃる事なのかもしれませんね。最近では金額をはっきり提示されている寺院も多くありますが、常光寺では「お気持ち(志)で構いません」と常にお答えしています。そもそも金額の云々よりお布施の意義を理解しておく事が大切だと、常光寺は考えています。『布施』の語源はインドのサンスクリット語「ダーナ」からきています。「ほどこし」という意味でこの言葉は漢字で「檀那」とも書きます。これはいつしか生活の面倒を見る男性に対する敬称で「旦那様」と呼ばれ、現在の夫婦間でも使われるようになりました。「ダーナ」は略して「檀」ともいわれ、「檀家」もここからきています。ちなみに法事やお葬式の「施主」という言葉は『布施』からきています。『布施』は3種類あります。

①財施
物やお金を施す布施の事。食べ物・飲み物・花・衣服など人の為、社会大衆のためになる物全て。例えば災害が起きた被災地に対して義援金や物資を贈る事も財施になります。

②法施
仏様の教えを説き聞かせ施す事。布施のうちではこれが最も大切だといわれています。なぜなら物を施しても限りがありますが、教えを施す事により、その人の心は正しくなり、本当の安楽安心の境地に至る事が出来る、人にとって最も必要な、限りない無形の部分を得る事になるからです。

③無畏施(むいせ)
法施の中に含まれるともいわれる。日常生活の上での不安や様々な苦悩から救ってあげる事。誰にでも出来る優しい言葉や明るい笑顔で接する事もこれに当てはまります。
私達は日常生活で、自覚するとしないとに関わらず無畏施という施しをしている事になります。それに、お寺による法施と施主による財施を伴わせ、奪い合いではなく、与え合う世界を作る・・というものが追善供養の功徳なのです。ですから、お布施はお坊さんにあげる「お給料」ではありません。時々「お経料」と書いてお布施を渡される事がありますが、これは残念ながら間違いです。お経に対する代価でもありませんので「お布施」と書くのが正解です。

お経の中に「布施は施す者も、受ける者も、また施す物や心も、この3つがいずれも清浄潔白で汚れのないものでなければ御利益も功徳もない」と教えられています。自分が貧しい人や弱い人を見下して「してやってる」という気持ちや、惜しみ惜しみしぶしぶ施すのは布施ではないという意味なのです。お布施の金額に定価はありません。

【貧女の一灯 ~意思が行動の基本~】

紀元前約500年、現在のネパール国境に近いサヘト・マヘトの地にスダッタという大富豪が作った祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)にまつわるお話です。お釈迦様がこの祇園精舎に向かって夜の道をおいでになる時、王様や大富豪達はお釈迦様の為に沢山のお金を出して良い油を買って、立派な大きい灯明を沢山道の脇に照らしたので、暗い夜道も真昼のように明るく照らされました。
そんな中ある一人の身寄りのない女性が、食べ物を求める為に取っておいたわずかなお金を持って油屋へ行きました。油屋は女性の志に感銘して、多目に油を売ってくれましたが、その量は夜中まで持つのがやっとの量でした。彼女はそれでも小さな灯明を道の脇に供えましたが、富豪達はその小さな灯明を馬鹿にしました。夜中になり、突然強い風が吹き、道の両側の灯明は全て消え、お釈迦様の前は真っ暗になってしまいました。しかしよく見てみると、暗黒の中に小さな灯りが見えます。それはあの女性の供えた灯明でした。なぜかこの灯明は次第に明るくなり、遂には煌々と輝いて道を真昼の様に照らし、お釈迦様は無事に祇園精舎に辿り着く事が出来たそうです。
このお話しは、先程のお布施の話につながります。お布施で大切なのは金額の大小ではなく、心であり、しかもこの女性のような一灯の真心なのです。
例えば同じ金額のプレゼントをもらうにしても、相手が軽い気持ちで買ったプレゼントと、自分を一心に思い考え、必死で働いて買ったプレゼントの価値は全然違いますね。お布施も同じです。確かに法要の準備は大変だと思われるかもしれませんが、その方が「目に見えない人に対するものだから、この位でいいや」ではなく、本当の真心をもって供養する事への大切さと感謝の気持ちを込めるのがお布施なのです。そして何よりも、その真心の気持ちを次の世代へとつないでいく事が、現代の私達の最大の課題であり、功徳を積む事になるのではないでしょうか。


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