法要の時に、私たちが最初に読み始める開経偈(かいきょうげ)を現代語に訳して書いてみます。
開経偈はお経ではなく、お釈迦様に対して「今から、ありがたい法華経を聞き、見、読むことによって、その素晴らしい教えが自分の向上となり、功徳を受ける事ができますよう、どうか宜しくお願いします。そしてこれからもこの法華経に出会えたことに感謝し、信心していきます。」という意味をこめた宣誓のようなものです。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇たてまつること難し。
たとえ人間の寿命を何千万倍もはるかに超えるほど長い間生きていたとしても、非常に意味の深い素晴らしい仏法である法華経に出会う事はとても難しいのです。
我れ今見聞し受持することを得たり。
しかし、私は今お釈迦様の真実の教えである法華経に出会い、お経の文字を見聞きし、受け、信心の心を持続していく事を知りました。
願わくは如来の第一義を解せん。
どうか、お釈迦様の説かれた最高の教えを極める事ができますよう、心からお願い致します。
至極の大乗、思議すべからず。
とてつもなく偉大な法華経の教えを、私の小さな考えによって理解しようとするのではなく、
見聞触知、皆菩提に近づく。
法華経を見聞きし、お経の文字に素直に触れる事が、皆共に仏の悟りに近づくのだ、と信じて読んでいきます。
能詮は報身、所詮は法身。
法華経の教えを説いているのはお釈迦様であり、その説かれている教えは生きとし生けるもの全てを仏にしようとされているお釈迦様の心(正しい生き方)なのです。
色相の文字は、即ちこれ応身なり。
教えを言葉にしたお経の一つ一つの文字は、お釈迦様そのものなのです。
無量の功徳、皆是の経に集まれり、
お釈迦様のあまりにも深い功徳が、全てこのお経に集まっています。
是の故に自在に、冥に薫じ密に益す。
このため法華経を信じれば、私達は自然に意味の深い法華経の功徳に染まり、知らず知らずうちに、本当のご利益を受けるのです。
有知無知、罪を滅し善を生ず。
智慧(物事をありにままに把握し、仏の正しい道を見極める認識力)のある人もない人も、これまで犯してきた間違いをなくして、正しい心を持ち、正しい行いが出来る人になれます。
若は信、若は謗、共に仏道を成ず(ぜん)。
法華経を信じる人も、非難する人も、皆共に仏になる道を成し遂げる事が出来ます。
三世の諸仏、甚深の妙典なり。
過去・現在・未来の三世にいらっしゃるあらゆる仏の、深い深い悟りの心が記されている素晴らしい経典が、法華経なのです。
生々世々、値遇し頂戴せん。
何度生まれ変わっても、いつの世に生きようとも、ありがたく頂いているこの法華経を信じ続ける事を、心からお誓いします。
少し長くなりましたが、これから開経偈を読む時には「あぁ、こういう意味なんだな」と思って頂ければ幸いです。
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