2014年11月8日土曜日

日蓮聖人の生涯②

前回の続きです。

【度重なる法難(仏教に対する弾圧事件)と奇跡】

松葉ヶ谷の法難
立正安国論提出の一ヶ月後、幕府を後ろ盾とした他宗の僧・信徒が結託して草庵を襲撃します。それを日蓮聖人は、帝釈天の遣いの猿に助けられ難を逃れます。翌年の1261年に鎌倉に戻り、一層猛烈な布教活動を行いました。

伊豆への流罪
5月12日、幕府(執権北条長時・重時)や極楽寺の良寛等により、これという罪名もなく伊豆へ流罪となりました。島へ渡る間役人達の企みで、満潮になると沈む岩に降ろされてしまい、お題目を唱えながら九死に一生を得ている中、一隻の船に助けられ伊東へ無事に到着したのです。流罪中、長時は病に倒れ、重時が狂死した事もあり、伊東で法華経を広めた後に流罪を許され、帰郷しました。

小松ヶ原の法難
故郷安房の国に戻った日蓮聖人は亡くなったお母さんを生き返らせ、その後お母さんは4年間元気に過ごしました。
1264年11月11日信者である工藤吉隆の邸へ行く途中、千葉県の小松ヶ原で景信が数百人の兵を引き連れ襲撃してきました。この時迎えに来ていて、知らせを聞いて争いに飛び込んでいった吉隆は「自分の子供を弟子にしてほしい」との遺言を遺し討ち死にしました。激戦の末、(説では)鬼子母神(きしもじん・きしぼじん)の助けにより、難を逃れます。その後景信は狂死しました。

十一通御書
1268年1月18日鎌倉に蒙古(モンゴル)から使者が来ました。予言していた他国からの侵略が現実化したのです。10月11日、聖人は当時の幕府・仏教界の代表11人に警告状を送りました。内容は「外敵を退散さるには法華経を広く弘め、あらゆる宗教の代表者を一同に立ち合わせ宗教の正しい事・よこしまな事を明白にさせるべきです」というものでした。

竜の口の法難
1271年8月12日、頭血がのぼった良寛は幕府や他の宗教家達を引き込み、日蓮聖人は逮捕され、処刑にまで追い込まれました。竜の口処刑場で、まさに首を切られようと刀が振り上がったその時!突然ものすごい稲妻が襲ってきたのです。その光で辺り一面真昼のようになり、刀を振り上げた兵士は目がくらみ、周りの兵士達も恐れおののき、処刑は失敗に終わりました。

佐渡流罪
処刑に失敗した幕府は、今度は日蓮聖人を佐渡島へ流罪にしました。佐渡へ渡る最中、天候は大荒れで、船もろとも海に飲まれようかという時、聖人は竹竿を持ち、荒れ狂う波の上に『南無妙法蓮華経』という文字を刻みました。はっきりとその七文字は浮かび上がり、たちまち波は静まり一行は無事に佐渡へ着いたのでした。当初、島内の暮らしは衣食住全てにおいて、普通なら命をおとすようなすさまじいものでしたが、1272年4月7日幕府の命で他の場所に移され、手厚くいたわるよう通知されました。日蓮聖人がかねてから予言していた事に幕府が恐れをなした為です。こうして、島内でも法華経布教を完全なものとした後、1274年2月14日北条時宗によって無罪放免となり、約3年間の流罪生活を終えました。

次回は日蓮聖人の身延山での不思議なお話を紹介します。

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