2014年11月3日月曜日

日蓮聖人の生涯①

10月13日は日蓮聖人のご命日で、常光寺でも毎年11月3日にその法要を行っています。今回はその『日蓮聖人の生涯』について書いて行こうと思います。

【日蓮聖人の誕生】
昔々、安房の国(あわのくに:現在の千葉県)の漁村に貫名重忠(ぬきなしげただ)と梅菊(うめぎく)という仲のいい夫婦がいました。ある日梅菊は夢でお日様が自分のお腹の中に入ってくる夢を見ます。はっとして目が覚めた梅菊は、自分のお腹に子供が出来た事を悟ります。1222年2月16日、貫名家の庭に突然清らかな水が湧き出し、海には多くの鯛が現れ、夏に咲くはずの蓮の花が咲き乱れ、この時貫名家には元気な男の子が生まれました。この男の子は「善日麿(ぜんにちまろ)」と名付けられ、この善日麿こそが後の日蓮聖人です。
幼い頃より賢く、周りからも一目おかれていた善日麿は道善房(どうぜんぼう)という僧侶からの申し出を受け、1233年に薬王麿(やくおうまろ)と改名し、清澄寺(せいちょうじ)というお寺へ預けられます。1237年、16歳で「是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)」と改名し、「日本一の知恵を授かりたい!」という常日頃のお祈りの甲斐あってか、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)様〈無限の知恵や慈悲を持った菩薩様〉より「知恵の玉」を授かります。こうして翌年1238年の秋、蓮長は長い長い修行の旅に出るのです。


【立教開宗の時】
月日は流れ、蓮長はついに『法華経』という本当の教えを見つけました。1253年4月28日32歳の頃、虚空蔵菩薩様と道善房上人にお礼を言う為故郷へ帰った蓮長は清澄山朝日が森の頂上で海の向こうに昇るお日様に向かって『南無妙法蓮華経』と唱えました。これが私達もよく唱えているお題目の始まりです。この時自ら「日蓮」と改名し、「お日様の様に、分け隔てなく光を注ぎ、蓮の花のように濁った所にでも美しい華を咲かせる・・そんな素晴らしい教えを社会に弘めていこう」と決意を固め、さっそく人々へ初めてのお説教を行いました。
ところが、日蓮聖人のスタートは厳しいものでした。「法華経以外のお経を尊ぶから、様々な災難が起こる。法華経の信仰を打ち立ててこそ、人々は救われる。」と話した事で、それまで他宗の信仰者であった地頭東条景信(とうじょうかげのぶ)をはじめとした民衆の怒りを買いました。それでも日蓮聖人はこの反応を覚悟しており、その上でゆるぎない信念で唱え続けたため、遂に景信に清澄山から追放命令を下されます。そして、ご両親を初めての信者とし、次第に信者の数も増え、弟子も持ち、鎌倉へ出発しました。

【立正安国論の誕生】
この頃、各地で暴風雨・洪水・大地震・飢饉が多発し、鎌倉では火事が起こり、人々は怯えていました。鎌倉の松葉ヶ谷(まつばがやつ)に草庵(そうあん)〈小さな家〉を持ち、1258年2月、日蓮聖人は災害の原因を調べようと静岡県の実相寺(じっそうじ)に籠り、毎日毎日書物とのにらめっこが続きました。
ある日、『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』という論文にまとめ、1260年7月16日39歳の頃、時の実権者北条時頼(ときより)に提出します。『立正安国論』の内容は「このままいくと内乱や他国からの侵略が起こるでしょう。今こそ国・国民が心を一つにして正しい教えを見つけましょう。その正しい教えは〈法華経〉なのです。」というものでした。法華経信者でない時頼は怒り、この事はすぐに鎌倉中に知れ渡り民衆の怒りも爆発しました。

【身延山での生活~入滅】
4月8日、幕府は鎌倉に戻った日蓮聖人を呼び、蒙古襲来がいつになるのかを尋ねました。聖人は「今年中には来ます」との予言通り、10月に蒙古軍は攻めてきましたが、幕府は日蓮聖人の助言を無視し他宗の祈祷をさせるよう命じました。「三度諌めて聴かざれば、即ちこれを去る※」という中国の故事にならい、聖人は山梨県身延山(みのぶざん)へ入山しました。身延山でも様々な出来事がありましたが、一日も休むことなく布教と弟子の育成に情熱を注いでいき、1281年には草庵を改築し、久遠寺(くおんじ)と命名しました。これが現在の日蓮宗の総本山です。
1282年日蓮聖人は体を悪くし、療養と父母の墓参りの為に身延山に別れを告げました。途中信者である池上宗仲(いけがみむねなか)の邸に立ち寄りましたが、2.3日滞在した10月13日、ついに亡くなりました。この時、突然大地が揺れ、季節外れの桜が咲き乱れたといわれており、現在もこの桜は10月頃から花を咲かせます。これが由来で御会式には紙で作った花(桜)を飾るようになりました。
※「臣下が君主の過ちを三度諌めても聞き入れられない時はその位から去る」の意味~礼記より


次回は日蓮聖人の度重なる法難と奇跡について書いて行こうと思います。

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